小磯良平さんのこと

2008年5月25日

 この春、神戸市立小磯記念美術館では特別展「小磯良平聖書のさしえ展」(4月11日-5月25日)が開かれている。数年前になるだろうか、東京・世田谷美術館で「小磯良平展」が開かれた。没後十数年にもなり、小磯さんを知っている人も少なくなった。この画家の清澄な気品ある画風に魅せられているのは年配の女性たちだろうと思って出かけたら、意外と若い人がたくさん入っていたので驚いた。モダンを一切廃して、西洋古典主義の伝統をたどる確かな作品群が多くの人々の心を捉えてやまないのだ。この近代日本の洋画壇の巨匠が、キリスト教徒であることや「口語聖書挿絵」を描いていることはさほど知られていない。広辞苑には「洋画家、神戸市生まれ、東京美術学校卒、新制作派協会結成。温和な人物画を描く。作「斉唱」など。(1903-1988)」と辞書的輪郭だけが記されている。


 私が小磯さんを知ったのは、戦後間もない「新制作展」だったように思う。幾部屋か過ぎて、メインの展示場で婦人像に出会った時、その静謐で典雅な作品に圧倒された。以後、「新制作展」で小磯さんの作品に出会う度に、その前で「美」からは遠く隔たる自分を意識し、おののきすらを覚えていた。

 1978年、私は牧師として日本基督教団 神戸教会に赴任した。教会員名簿に「小磯良平」とある。初めて小磯さんの伝記的物語を知った。実家岸上家も養父母小磯家も皆、三田(さんだ)藩の出で、明治初期、宣教師D.C.グリーン他、米国会衆派の伝道によって藩主と共にキリスト教に入信し、神戸教会を形成した人物群像の系譜にある人であった。

 神戸女学院の初期女子教育の基礎を担った女性宣教師のピューリタ二ズムは、小磯さんを囲む母を初めとする女性たちのたたずまいそのものであった。小磯さんの女性像の気品の源はそこにあった。1988年、牧師として葬儀を司らせて戴くまで、十年間、晩年の小磯さんとお交わりを戴いた。エピソードはたくさんある。

 その一つ。神戸教会に平井城(1901-1988)さんという方がいた。小磯さんとは同世代で画材店を営む傍ら、不動産鑑定の仕事もされていた。戦争で小磯さんの中央区山本通りのアトリエは焼失していて、御影山手に新しいアトリエを作られる時、移転のお手伝いなどをしたという。親しい間柄であった。平井さんは自分の肖像画を描いて欲しいとずっと頼んでいた。小磯さんの家で小磯夫人と雑談をしていた時、「まだ平井さんの肖像画のことはそのままなんですよ」などと言われていたからよほど前からの依頼だったのであろう。ところがもうお二人共に最晩年を迎えていた。ある日、「あなたの肖像画を描くから、2 、3 日アトリエに来て下さい」との電話が平井さんにあった。平井さんは人生最高の面持ちを携えて出かけた。しかし、作品は平井さんの思惑とは異なっていた。平井さんがいささか戸惑った雰囲気を漂わすと、「画家の観たあなたはこれです」と小磯さんは念を押された、という。私が平井さんを尋ねると、黄色い布覆いの作品をちょっとだけ見せて下さったが、すぐ覆ってしまった。あまり見せたくなかったのであろうと察した。だが、瞬時にこの絵は私の心に焼き付いていた。

 幾許かの時が過ぎて、平井さんは病床につき、やがて入院先からご子息の「今、父が召されました」との知らせがあった。駆け付けて、ベッドの傍らで白布をとってお顔を拝見して驚いた。どこかで見た顔である。それは小磯さんの描いた顔であった。その絵そのものの顔をして平井さんは召されていった。私が出会った平井さんの最も生命に溢れた顔であった。神の前に携えて行く面持ちにふさわしかった。私は全人格を見通すこの画家の目に驚樗した。小磯さんのデッサンは対象の真実を映し出す。『薬用植物画譜』(昭和48年 日本臨牀社)などでは植物の一つ一つは写実でありながらいのちを伝えている。写実の画家であり、そこに一切のメッセージを盛り込まない、極めて端正な線で構成される作品に、だからこそ深い宗教性を覚える。

 来週、西宮のK教会で、女性方と一緒に小磯美術館に同道して、その後小磯さんのことを語る事になっている。また、新たな小磯さんに出会えるのではないかとの期待を抱きつつ。

2008年5月25日発行 単立明治学院教会「切り株」所収

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