三好博さんの人柄と運動(2003 出会い)

2003.11.21 掲載媒体不明(川和教会代務者 健作さん70歳)

 人あたりはおだやか、だが意志は強固。ソフトなユーモアで朗笑を誘う。三好さんはそんなお人柄だった。三好さんとは神学生時代、実習で派遣されていた神戸教会で一年間一緒だった。高校生会や青年会の活発で楽しい活動と共に、三好さんも僕も青春の日々を謳歌していた。

 何時だったか、たわいもない会話の流れの中で、お互いの身近な人たちを、漢字の「偏(へん)」にたとえて遊びを楽しんでいた。

「岩井君はさしずめ、言偏(ごんべん)だな」と彼。

 そういわれれば、論理でまとめる傾向は自分でも争えない、と日頃思っていたからこれはまあ仕方がない。よい意味では、理論派ということだが、自分では潤いがないことの自省として捉えていた。Mさんは「金偏」だろう。鉄人、槍、鋏、鍛練など連想するね。Kさんは「さんずい」かな。泳ぐ、注ぐ、流れる、いつも自在だな。そういえば「酒」もあるな。

 ところで「三好さんは人偏が、ぴったりというところか。何となく人に好かれるところなんか、にんべんだね。」と僕。

「にんべんでも『俗』なんと言うのもありますよ」と笑いながら三好さん。僕が言偏の「事柄人間」だとすれば三好さんはにんべんの「人柄人間」だった。僕も、三好さんもキリスト教の中では、どちらかというと「社会派」であることには違いない。宗教の救いを、人間の内面、魂の問題だけに受け取らないで、社会との関わりで考えていくというほどの意味である。だが、三好さんと僕では、そこへのアプローチの仕方は幾分異なっていた。

 彼は学生時代から、遊びにも勉強にもスマートなシティーボーイだった。大阪の経済人の一人息子、都市大教会・大阪教会の雰囲気を身につけていた。それに比べて僕は田舎牧師の息子、世間知らずの野人で、農村の貧困をかすめてきたためか根っからの不器用な社会派だった。

 僕は1950年代後半、その頃全学連の傘下にあった同志社大学学生自治会の神学部の委員をしていて、破壊活動防止法案や警察官職務執行法改悪の反対闘争に加わっていた。その当時は彼はノンポリだった。三好さんは、修士課程を終えて、神戸教会の伝道師を継いだ。一年後、僕は広島流川教会に伝道師として赴任した。それからは離れ離れで、三好さんは大阪の労働者伝道委員会や激動の1970年代を、大阪で万国博覧会へのキリスト教館出展拒否の闘争や、自立的牧師連合と歩みを共にした。また、関西キリスト教都市産業問題協議会を通して在日韓国キリスト教会館の働き、さらには日韓キリスト教の交流に貢献していった。私は、広島で原爆の問題に出会い、原水爆禁止運動に加わり、呉では蘇った海上自衛隊の自衛隊員の牧会では何をすべきかに悩み、岩国では岩国基地撤去の運動に加わり、1970年代はベトナム反戦米兵支援などに関わって過ごした。そうして1978年、神戸教会牧師に赴任してからは、当時すでに浪花教会で三井久牧師の後継牧師の任にあった彼との関西での緩やかな交流が続いた。

 三好さんが教会の社会的働きに重心をかけていったのは関西労伝の働きや1970年代の諸運動を通してなのだが、僕の関わり方は、どちらかというと権力としての国家の問題や社会の構造がまず気になる関わり方だったのに対して、三好さんはむしろいかにして虐げられた者の友になるかが、社会への関わり方であったように思える。僕の関心がどちらかといえば「事柄」にあるとすれば、三好さんの関心はもっぱら「人」にあったのではないか。これは、社会への関わりの両側面であろう。およそ運動というものは、目的となる事柄と担い手の人の繋がりで成り立つ。そして、人の繋がりは運動の膨らみをもたらす。三好さんの存在は後者にあった。「事柄」と「人柄」の両者は相関関係にある。目的である問題の把握が鮮明であってもそれだけでは運動は進まない。かと言って人間関係の繋がりだけでは運動は閉鎖的になる。

 雑誌「世界」の11月号で、李仁夏牧師が「南北和解の原点としての韓国民主化運動 −『韓国からの通信』の今日的意味」という論文を書いている。1973年から15年にわたって『世界』に連載し続けられた匿名「T・K生」による『通信』の書き手が池明観氏であったことが明かされた。そこには民主化という「事柄」と、クリスチャン・ネットワークという「人柄」の織り成す絶妙な総合があったことが語られている。「キリスト教在日韓国朝鮮人問題活動センター」を中心にする運動が、三好さんの人柄にあやかり、「事柄」と「人柄」の総合を大事にしつつ、ますます運動を進展されるように祈ってやまない。