社会派ということ ー 三好博を偲ぶ(2003 出会い)

2003.8.12、掲載誌不明

(サイト記)上の画像は野本真也さん所蔵:1960年夏、神学協議会、同志社大学神学館前にて。中央左が三好博(ひろむ)さん(河内松原教会牧師 28歳、後に浪花教会牧師)。左が健作さん(呉山手教会牧師 27歳)、中央右が野本真也さん(神戸教会伝道師 24歳、後に同志社大学神学部教授ー旧約聖書学、神学部長、賀茂教会牧師)

 三好博と初めて会ったのは同志社の神学部学生の時、多分1954年頃だったと思う。

 彼は学部4年、一年上級だった。彼の学年には、遊びにも勉強にもスマートなシティーボーイが多かった。三好はその中でも際立っていた。大阪の経済人の一人息子、都市の大教会である「大阪教会」の雰囲気を身につけていた。

 それに比べて僕は田舎牧師の息子、世間知らずの野人で、農村の貧困をかすめてきたためか根っからの不器用な社会派だった。その頃、全学連の傘下にあった「同志社大学学生自治会」の神学部の委員をしていて、破壊活動防止法案や警察官職務執行法改悪の反対闘争に加わっていた。

 彼は当時はノンポリだった。学部3年から大学院1年の3年間、神学生はフィルドワークで日曜日は京阪神の教会での実習が履修単位にあった。僕は4年と院1の2年間を神戸教会で実習した。三好とは一年間、神戸の実習生活を一緒にした。

 当時、神戸教会の牧師は最晩年の鈴木浩二。伝道師は笠原芳光であった。

 神戸の風土は明るく軽やかだった。リベラルを標榜する神戸教会の雰囲気に加えて、笠原の自由で闊達な活動や思想が青年たちを包んでいた。三好はそれを下支えして人気があった。

 彼は修士課程を終えて、笠原の後、神戸教会の伝道師を継いだ。

 一年後、僕は広島流川教会に伝道師として赴任した。それからは離れ離れで、三好は大阪の労働者伝道委員会や激動の1970年代を、大阪で万国博覧会へのキリスト教館出展拒否の闘争や、自立的牧師連合と歩みを共にした。また、関西キリスト教都市産業問題協議会を通して在日韓国キリスト教会館の働き、さらには日韓キリスト教の交流に貢献していった。

 私はと言えば、広島で原爆の問題の凄まじさに出会い、原水爆禁止運動に加わり、呉では蘇った海上自衛隊に、自衛隊員の牧会では何をすべきかに悩み、岩国では岩国基地撤去の「社共地区労キリスト者」の運動に加わり、1970年代はベトナム反戦米兵支援などに関わって過ごした。

 1978年、神戸教会牧師に赴任してからは、当時すでに浪花教会で三井久の後継牧師の任にあった彼・三好博との関西での緩やかな交流が続いた。

 社会派というレッテルは好きではないが、三好は決していわゆる「教会形成」一本槍ではないという意味でいつの間にか「社会派」になっていた。

 僕の関わり方は、どちらかと言うと社会の構造変革がまず気になる関わり方を歩んできた。人間を、特に個人の魂を破壊していく権力との対峙が焦点になる。戦争を起こす国家の権力と向き合わねばならない。

 それに比べて三好は現に出会っている虐げられた者の友になるかが、社会への関わりであった。僕の関心が「事柄」と言えば、三好の関心は「人」にあった、と言える。

 両者は相関関係にある。問題の把握があまり一方に偏ってはならないであろう。

 彼は、僕にとってそのような問いを穏やかに提供し続けた存在であった。

 友の逝去に惜別の涙を禁じ得ない。

三好博さんの人柄と運動(2003 出会い)

浪花教会(2003 教会と聖書13)

三好さんご苦労様でした(2003 出会い)