
2000.4.26 頌栄短期大学チャペル、チャペル月報 2000.5 所収
(健作さん66歳)
マルコ福音書 10:13-16
今日は皆様の前の向かって右に掲げてある絵についてお話しします。この絵が掲げられたのは、1980年です。この建物が出来た時に何か絵を掲げたいということで田中忠雄画伯にお願いして描いていただいたものです。
田中画伯は若い頃、四歳になる忠君を天国に送られました。そのお葬式の時、私は小学校二年生位だったと思いますが、幼な子が、神に受け入れられていることを心で感じました。39年後、どんなテーマがよいかな、と私に問いかけられた田中先生に、私は即座に忠君が出てくる画がいい、と申しましたら、よし決まったと、この主題になりました。
私はこの絵について、私なりの解釈を持っています。どういう解釈かというと、今朝読んでいただいた聖書の箇所をよく見て下さい。
イエスに触れていただくために人々はこどもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々をたしなめた。しかし、イエスはこれを見て憤って弟子たちを叱ったとあります。
この絵の中にイエスが叱った弟子たちは出てこないのです。弟子たちはこの絵の外にいます。ここが私のこの絵についての解釈です。非常に優しい絵ですけれども、弟子たちがこの枠の外におかれているということはこの絵の厳しさです。
弟子たちは誰が一番偉いかという論争をしていたのです。そして、幼な子には価値がないと考えていたのです。母親がイエスの所に幼な子を連れて来た時に、大人の分別で母親たちをたしなめたのです。
弟子たちの存在が暗示される枠の外は力の論理の働く世界です。競争の世界です。それと全く反対にイエスは価値の無いものとされていた幼な子を抱き上げて祝福し、愛の働く世界を示されたのです。神様の国はこのような者の国ですよと。

私は幼稚園の園長を四十年しています。たくさんの保育者と一緒に仕事をして来ました。色々な保育者がおられます。力で保育をする保育者にも出会いました。保育の技術においては大変すぐれた先生がおられました。卒園式が終わって出てゆく園児に「幼稚園で何が一番楽しかった?」と聞いたことがあります。「受け持ちの先生が休んで隣の先生と一緒に遊んだ時が一番楽しかった」と言われて愕然としました。たまたまその子の思い出だったのかもしれません。でも「力の保育」というものを感じました。
もう一つ経験があります。学校を卒業して新しく来られた先生に年中組を持っていただきました。なんともクラスがまとまりません。そのクラスのお母さんの一人から「こどもをよその幼稚園に変えたい」という申し出がありました。しかし、その子は「ここは僕の幼稚園だ。先生が好きだ。変わらない」と言ったのです。その教師はこどもに本当に優しいのです。私から見ても実際的に充実した保育が出来るには、少なくとも五年はかかります。しかし、どういう保育者が伸びているかというと、この絵の枠の中のことがわかっている保育者が伸びています。
この枠の外は力の世界。枠の中は愛の世界。神様に委ねて、こどもは神様が育ててくださることを信じて、こどもが神様に最も近いんだ、そういう優しさの眼差しを持った保育者が、結局はこどもを育てているのです。そしてまた、こどもたちが保育者を育てているのです。
頌栄は聖書の原点を持った学校です。どうか皆さんがそのことを二年間で学んでくださるようにと祈りを持ちます。

