1995年7月16日 神戸教会、
夏期特別集会、講師:川端純四郎(東北学院大学助教授)
集会パンフレット
同日発行 教会報「神戸に住む」(震災から半年)
信仰の自由《ガラテヤ 5:1-6》(川端純四郎氏)
オウム真理教や統一協会の信者の人と話をしていると、すぐに「信教の自由」を持ち出してきます。
説得しようとする者に対して、余計なお世話だ、信仰は自由だ、と言うのです。
しかし、「信仰の自由」とは、何を信じようと勝手だということなのでしょうか。
信仰「は」自由ということでしょうか。
オウムを信じようが、統一協会を信じようが、あるいは子どもの七五三は神社で、結婚式は教会で、葬式は仏教で、それが「信仰の自由」なのでしょうか。
パウロは「あなたたちは自由を得るために召し出されたのだ」と言います。
「信仰の自由」とは「信仰における自由」なのです。
信仰「が」持つ人間を自由にする力なのです。
信仰は神への服従です。
ですから信仰は不自由です。
なんでも勝手に選択する自由はありません。
しかし、その服従において私たちは真に自由になります。
「何から」自由にされるのでしょうか。
罪から、この世の君から、諸々の権威からです。
「何へと」解放をされるのでしょうか。
愛へと、互いに仕え合うことへと解放されるのです。
「愛の実践をともなう信仰こそ大切です」。
ここに信仰「の」自由が生まれます。
信仰「は」自由というような自分勝手な選択の自由ではなく、信仰「が」私を自由にしてくれる受動的自由なのです。
私を解放してくれる神の声は私の良心にのみ響く声です。
「静かに細い」(列王記上 19:12)その神の声に聴き従う時に、私たちは何者にも頭を下げない強烈な自己を形成せしめられます。
信仰において形成される自由な主体的な自己の確立、これこそ信仰「の」自由の根本なのです。
この自由に国家権力が介入してきた時に、はじめて「信仰の自由」は法律上の概念となります。
私はこの世に生きる者として国家や政治的権威を承認します。
しかし、国家が私の内面にまで介入するなら、断固として拒否します。
国家も権威も天皇も富も地位も何者も私の主ではありません。
神のみが主なのです。
そして現代の国家独占資本主義の社会では国家は常時私たちの内面にまで立ち入って管理しようとします。
公私・政教分離の古典的資本主義の時代は終わったのです。
教育とマスコミを通じて常時個人の内面を管理しようとします。
「目を覚ましていなければ」なりません。
マインド•コントロールによって良心を麻痺させて信仰に引き入れる宗教には、信仰「の」自由は存在しません。
愛の中に生きる信仰の自由こそが尊いのです。
(1983年7月16日 夏期特別集会 神戸教会週報 川端純四郎記)
”この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、”霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト•イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。”(ガラテヤの信徒への手紙 5:1-6、新共同訳)