弱さを抱え込んで《Ⅱコリント 12:9》家庭集会にて(1995 週報・N姉宅家庭集会)

1995.7.2、神戸教会週報、聖霊降臨節第5主日
家庭集会は 1995年6月29日(木)午後
神戸市北区N.H姉宅(参加15名)

(神戸教会牧師18年目、牧会37年、健作さん61歳)

《主日礼拝》 イザヤ書 52:7-10、説教「歓喜の声」
《家庭集会》 コリントの信徒への手紙二 12:9

“すると主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。”(Ⅱコリント 12:8-9、新共同訳)


 かつて教会で結婚式を挙げたMさんが土曜の夜遅く、知人の通夜で前を通ったからと牧師館に寄ってくださいました。

 Mさんは三宮で賃貸ビルのT実業を営んでおられます。

 地震によるビルの被害が異状だと気づいて、別の建築設計事務所の協力を得て調査した結果、高度経済成長期の大手S建設の工事は仕様通りではなく、かなりの手抜きがあったことが判明して、色々の曲折を経て、S建設は手抜きを認め、その上で対応をしたいというところまで来たという話をしてくださいました。

 震災の後の心労の多いMさんのために祈りを捧げ、お別れしましたが、S建設の手抜き判明の話は新聞記事にもなっていました。


 震災は、このように建物のことだけではなく、開発を優先させてきた行政のあり方だとか、様々な組織や家庭の人間関係を揺さぶり、さらには個々人の精神的あり方までも破壊しました。

 人々の心の中を未だ揺らしている「余震」はまだまだ続いています。

 先日も、祈祷会に出席されたMさん(先のMさんとは別)が、震災後、ご自身が体験された「鬱」状態から快復できたのは、ひとえに価値なき者をも救い給う神の恩寵による、と深い感謝を捧げておられたのに、心を打たれました。

「躁」とか「鬱」とか、そんな言葉を聞くと、何か震災後の自分の心の状態を振り返ります。

 そして、人間は弱い存在だとしみじみ思います。

 特に、建物ではありませんが、日々の生き方で手抜きをしていたとすると、そのことが誤魔化しなく、露になってしまっているような気がします。


”覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。(マタイによる福音書 10:26、新共同訳)


 その通りだと思います。

 でも「弱さ」も隠す必要はないのです。


”セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。”(創世記 4:26、新共同訳)


 ここでの「エノシュ」という名前の意味は「弱さ」です。

 その「弱さ」の認識の中から「礼拝」が始まります。(青木伝道師の聖書研究より)


“すると主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。”(Ⅱコリント 12:8-9、新共同訳)


 この言葉は、自分の弱さに打ちひしがれた時にも、なお意志的であり、応答的であり、相互主体的であり、逆説的であり、言葉の主体たり得るのだ、という招き、あるいは励ましを宿しています。

(1995年7月2日 神戸教会週報 岩井健作)


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