1992.7.12、神戸教会 週報
聖霊降臨節第6主日・夏期特別集会
同日発行の教会報祈祷「波の輪のように」岩井
前週説教:おのれを低くして 岩井
この日の説教は、ローマ人への手紙 8:18-25、「神の子たちの出現」青野太潮
1992年 神戸教会夏期特別集会
7月11日(土)神戸教会神学講座:参加者51名
「今日聖書をどう読むか」
講師:青野太潮(西南学院大学教授)
7月12日(日)礼拝説教:出席144名
「神の子たちの出現」
説教者:青野太潮(西南学院大学教授)
7月12日(日)夏期特別集会:参加者74名
礼拝後から18:30迄
「今日における『十字架』の意義」
講師:青野太潮(西南学院大学教授)
青野太潮氏:1942年(昭和17)生(1992年当時は50歳)。静岡県出身。国際基督教大学教養学部人文学科卒。東京大学大学院西洋古典学科 博士課程を経て、チューリッヒ大学大学院にて神学博士号取得。(1992年現在)西南学院大学神学部教授(2009-2017年 日本新約学会会長、2013年より西南学院大学名誉教授)。『「十字架の神学」の成立』(ヨルダン社 1989)他、訳書・著書多数。
ローマ 8:18-25「神の子たちの出現」青野太潮
私たちの生きている現実はそれぞれに異なっていますが、目を私たち自身だけの生活から私たちの周囲の人々、そしてさらには地球規模で世界の人々の生活にまで転じていく時、そこに私たちは今朝の聖書が語っている「虚無」が充満しているのを見ないわけにはいきません。
今私たちがこうして礼拝をしている間にも、何百、何千という人々が飢餓のために死を迎えているのです。
ところがパウロは、ローマ8章20節で、「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによる」と述べています。
「服従させたかた」すなわち私たちの信じている神さまは、そのような虚無を当然と考えられるような残酷なかたなのでしょうか。
しかし、同じローマ書の5章12節によれば、「ひとりの人によって罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうしてすべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」と言われていますので、この死に代表される虚無の到来は人間の責任にも帰せられるものなのだ、ということも言われなくてはなりません。
しかもアダム一人の罪ゆえではなく、「すべての人」も罪を犯したので、と言われています。
しかしここで重要なのは、目指されているものはこの虚無からの解放なのだ、ということです(22節)。
否、目指されているのみでなく、その解放は「御霊の最初の実を持っている私たち」(23節)においてすでに、少なくとも部分的にではあれ、現実のものになっているのです。
そのことは、パウロがここで、他の箇所における自らの用法とは全く異なって、24節で(口語訳も新共同訳も「救われている」と訳していますが)アオリスト形という過去形で「救われた」と語っていることからも言えるでしょう。
しかしその「救い」は「望みによって」のものであり、また「うめき」や「産みの苦しみ」(22節)を伴ったものでありました。
つまり現実の救いは、この世界の苦難の只中で与えられているものなのだというのです。
それは実際に目で見ることのできるような保証を伴ったものでは決してありません(24節)。
しかし御霊の最初の実を与えられている私たちは、この事実を霊の現実として逆説的にとらえることをゆるされているのです。
この事実に生かされる者こそ、「神の子たち」(19節、21節)なのです。
そしてまたこの事実を宣べ伝えていく者こそ、神の子たちなのです。
世界はこの「神の子たち」の出現を待望しているのです。
虚無の只中に希望と喜びを見出していく、そしてそれを実現していく者へと私たちがなっていくことが期待されているのです。
(1992年7月12日 週報掲載 青野太潮)