良い羊飼《ヨハネ 10:1-18》(1981 週報・説教要旨)

1981.8.9、聖霊降臨節第10主日、
説教要旨は翌週の神戸教会週報

(神戸教会牧師3-4年目、牧会23年、健作さん48歳)

この日の説教、ヨハネによる福音書 10:1-18、「良い羊飼」岩井健作
 ”わたしがよい羊飼”(選句ヨハネ 10:11)、”わたしはよい羊飼”(口語訳)


岩井牧師出張:兵庫教区 総会議長として、8月10日(月)・11日(火)、兵庫教区但馬地区の浜坂教会、城崎教会、三方伝道所等7教会を問安。翌週16日(日)は、東神戸教会、新泉伝道所で講壇担当。19日(水)〜21日(金)、北陸出張。キリスト教保育連盟 関西部会 夏期研修会に、チャプレンとして参加。


 「わたしはよい羊飼である」という文を何気なく読む私たちは、羊飼いになぞらえられたイエスの振る舞いのやさしさの説明としてここを理解している。

 牧羊を生業としていた民族には、羊飼いの良さや熟達の厚みは以心伝心で人々の経験となっていたことであろう。

 しかし、ヨハネのこの語句の強調は、イエスの性質を説明するというより、「わたしが」に強調が置かれていて、句そのものが挑戦的・論争的性格を持っている。

 なお「わたしが……である」は象徴語句といい、「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハネ15:1)「わたしは命のパン」(ヨハネ 6:35)の如くヨハネ独特の表現である。


 イスラエルの歴史を顧みると、預言者エゼキエルは、ユダ王国の指導者たちがいかに民を養わなかったか、を述べている。

 「羊」は散らされている(エゼキエル 34章)と。

 イエスも群衆を「飼う者のない羊のようなその有様」(マルコ 6:34)と言う。

 歴史の裂け目で、エゼキエルは神にのみ希望を託し、「わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す」(エゼキエル 34:12)と主の言葉を記す。


 このような文脈にヨハネの言葉を置いて読み直す時、「わたしはよい羊飼」は「盗人、強盗、雇人」(ヨハネ 10:8, 12)に対する挑戦である。

 この世には、収奪し、殺し、私利を肥やす狼の論理がある。

 しかし、そのもう一方の極みに「羊のために命を捨てる」(11節)という、狼の論理を打ち捨てる拠点が立てられている。

 イエスは十字架の死において言葉通りに命を捨てられた。

 それは「わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」(ヨハネ 10:18)という自由の極みにおいて。

 ここには、人間が生の充実を生きる原型が示されている。

 よき教育者、よき医師、よき牧会者、よき社会福祉家、等々ということを目指すならば、最終的に、人の生命に正面向かって何をしなければならないかが見事に提示されている。

 そして私たちはたじろぐ。


 今日の政治・社会・教育・そして教会の状況に対して、しかもそれに何がしか関わりを持つ自分に対して、イエスの「わたしがよい羊飼」は、鋭い問いである。

 世の力にくずおれてはいまいかと叱責が飛ぶ。

 しかし「わたしはよい羊飼」という時、そのくずおれを包み、闇に打ち勝つ拠点は立てられているのだ、とこの言葉に慰めをも与えられる。

 このイエスの宣言ともいうべき言葉の前で、私たちは自分の戦線を整えたい。

(1981年8月9日・16日 週報 岩井健作)


 ”よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からではなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。門からはいる者は、羊の羊飼である。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。”(ヨハネによる福音書 10:1-18、口語訳)


1981年 週報

1981年 説教

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