残留する罪《ヨハネ 9:35-41》(1981 平和聖日・礼拝説教要旨・週報)

1981.8.2、(平和聖日)聖霊降臨節第9主日、神戸教会
説教要旨は8月9日の週報に掲載

(牧会23年、神戸教会牧師4年目、健作さん48歳)

ヨハネ福音書 9:35-41、説教題「残留する罪」

”そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである。」”(ヨハネによる福音書 9:39、口語訳 1955)


 ある人にとって、聖書の一句が人生の転換につながることがある。

「ヨハネ9章」はそういう箇所である。

 例えば、全盲の青木優牧師は次のように語っている。

”24歳で失明した時、はじめて聴いたイエスの言葉「ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」。それは私に大きな衝撃を与えた。当時、突然の失明によって一切を失ったと思っていた私は、この言葉に出逢った時、ただそれに自分の将来を賭けた……”

 失明の時、医師のインターン中だったことを回顧して、同牧師は続ける。

”見えなくなったことを通して知った「隣人の痛み」は、「神を知らず」《見えるままで》医師になっていても分からなかったかもしれない。最近の公害による健康被害などを見ると恐ろしくなる。”

 冒頭に引用のヨハネ福音書9章39節が語る通りである。

”「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである。」”(ヨハネによる福音書 9:39、口語訳 1955)

《見えると思っている》者(特に「先生」の名で呼ばれる社会的役割を持つ者、宗教家、教師、医師などの自省は厳しくあらねばならない)がひっくり返される。

 その代表として、ファリサイ人が登場するのが、今日の聖書の箇所だ。

 彼らはイエスに対して「私たち盲人なのですか?」と問う。

 この「も」に示される彼らの差別観を見逃してはならない。

 彼らは「盲人」として人を見るが、「神の御業が顕れるための器」としては人を見ない。

 私たちが、障害者、盲人という場合、知らないうちに「健常者」「晴眼者」の基準から見てはいないだろうか。

 そこには「見える」という罪が留まる。

(41節の「罪がある」の「ある」は「残留する」の意)


”イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。”(ヨハネによる福音書 9:41、口語訳 1955)


 自分が第三者でいることのできる人間関係の状態というものは、よく分かるのが普通だが、当事者となると「見える」と言いながら実は見えていない部分が多いし、まして関係の変革は難しい。

 誰がそこを審くのか。

 十字架の死を負われたイエスが我々の「見えると言い張る」残留する我執(罪)を、厳しく、鋭く、また慈しみを持って「さばき」給う。

 イザヤ6章10節、マタイ10章34節の逆説を聞かねばならない。


”あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである”(イザヤ書 6:10、口語訳)

”地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。”(マタイによる福音書 10:34、口語訳)


 自分に引き寄せられた「信仰の理屈」に安住して、あたかも耐性菌のように生き延びて、「さばき」を逃れられるとは思わない。

 平和聖日にあたり、かつて日本によって軍事的に、現在は経済的に侵略を受けている国々から見る時、日本の「見えると言い張る」罪の残留は、抜き難いものであろう。

 そのことも自覚したい。

(1981年8月2日 朝礼拝説教要旨)


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