聖書にきく(12)(1981 保育)

「キリスト教保育」(キリスト教保育連盟) 1981年3月 所収

(神戸教会牧師・神戸教会いずみ幼稚園園長 47歳)

公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ。 アモス書 5章24節

 第二次世界大戦下のことです。神戸には、日本の「敵対国」アメリカ兵の捕虜収容所がありました。その捕虜達は、日本の戦争で日本側に捕らわれ、港の労役に従事させられていたのですが、日本の営兵は国際的な捕虜についての協定をあまり守らないで、捕虜に対して殴ったり蹴ったり過酷なことがあったそうです。ある日のこと、仕事を終えて帰る途中、ジョージというアメリカ兵の捕虜が「やれやれ、今日もやっと仕事が終わったが辛かったなあ」とホッとした気持ちになって綺麗な夕日を見ていると、小さな時のことが懐かしく思い起こされ、たまらなくなって「神様、早く戦争をやめさせてください。そして1日も早くアメリカに帰してください」と心の中で祈りました。

 そんなとき、思わず小さいとき教会学校で習った讃美歌が口から出てきました。『Jesus loves me , this I know』と小さな声で歌うと、すぐそばを銃を担いで歩いていたAという日本兵がそれに合わせて「主、我を愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ」と合わせて歌い出したのです。ジョージはびっくりして「あなたはどこでその讃美歌を習いましたか。僕は小さいとき教会学校で教わったのです」と尋ねると、「ぼくは小さいとき、頌栄幼稚園というキリスト教の幼稚園に行っていたんだ。そこにアメリカのハウ先生という園長さんがおられたが、ぼくはその先生から教わったのだ。とても美しい優しい、歌の上手な先生だったよ」と答えました。

 それから国と立場の違いを超えて、二人の美しい交わりが続いたとのことです。

 これは実は、頌栄短期大学の高野勝夫教授が著書『キリスト教保育における幼児礼拝の導き方』(神戸キリスト教書店 1980)に載せているお話です。

 エ・エル・ハウ女史(Miss Annie Lyon Howell 1852-1943)については、同教授による『エ・エル・ハウ女史と頌栄の歩み』(頌栄短期大学刊 1973)に詳しく記されていますが、フレーベリズムに立って、日本の幼児教育の黎明期に大きな影響を与えた人です。特に、明治20年代、教育勅語が発布されて、我が国の教育の基本方針が天皇を中心とする国家体制に据えられ、忠君愛国の偏狭な国家主義に組み込まれていく中で、ハウ女史が意識的にそれに抗して平和教育に徹する保育を行ったことは、保育史における大きな足跡として注目されています。先の逸話もそういう背景から生まれ出たものと思われます。

 ハウ女史は教師に軍隊行進曲をマーチに使ったり、乃木大将の美談を話したりすることを戒め、父母に武器を模した玩具を与えないように注意し、第一次世界大戦やワシントン軍縮会議のことを保育の単元に取り上げたということですが、同女史の伝記を読んでいて感じることは、平和教育がただ理念的に教えられたということではなくて、自立した子を育てるための日常の保育と相まって進められたという点であります。

 彼女は「自分のことは自分でする自己依頼の精神(セルフ・ディペンデンス)」を養うように職員や学生にやかましく言ったということですし、転んでも他人に頼らないで自分で起き上がるように日頃の保育で厳しく子供をしつけたということです。

 もし、そのように日常生活の中での自立がないままで、理屈や論理としてだけ平和のことを考えたとすると、総論は立派だが、各論に当たる具体的なことになると、からっきしダメということになります。幼い時、家庭で過保護に育って、身の回りの自立を素通りして、頭の方だけは大学で立派な論理だけ詰め込んできたというのでは、本当には戦えないのではないでしょうか。そういう意味では冒頭の逸話の中で、兵士であった日本人Aがあの厳しい軍国国家体制の中において、たとえ表立った反戦平和への気持ちを持ってはいなかったとしても、兵士であってただ命令に服するだけの人間ではなくて、危険を冒してもジョージが病気の時そっと薬を届けたりする人間として当然といえば当然な行為の発露を表す自立の精神を、幼児教育の中で養われていたことに目を見張らされます。

 さて、幼児教育が幼子の心に及ぼしている影響を考えると、保育者や園が抱いている人間像はとても大事なものだと思います。私は今年度の「聖書にきく」を終わるに当たって、この日本でこれからどんな人間像が大事なのかな、と思った時、ふと旧約聖書に出てくる預言者アモスのことを思い浮かべます。アモスは紀元前8世紀の中頃、イスラエルの国でイチヂク桑の木を育て羊を飼っていた牧者でしたが、神の召しを受けて預言者として活動しました。当時、国家の制度として祭儀を司る職業的宗教家の預言者もいたわけですが、そういう人たちを含めて支配層の人たちは相当に堕落をしていました。その原因は、当時国家が繁栄して経済的にも富んだのですが、それを良いことに支配階級の人が富を独占し、イスラエル宗教の根本である「神の律法」をないがしろにして、同胞が助け合って生きていく倫理を守らなかったからです。富める者の不法行為はひどく(アモス2:6-8、5:10-12等)黙視できないものがありました。アモスはそんな状況で抑圧された者の側に立って「神の審判」を語りました。その一節が引用の句です。

 アモス書を読んで私たちが感動させられるのは、アモスが自分の国の滅びを冷然と語ったのではなく、一方においては腐敗の現実に激しい怒りを抱きながら、他方においては神の審判(幻では、地震・外敵・捕囚・イナゴ・干ばつなどで示される)を前にして、自分の民族のために執り成しをし、神の審判を回避しようとする努力がなされている(木田献一著『イスラエル予言者の職務と文学 ー アモスにおける予言文学の成立』 日本基督教団出版局 1976、p.173)、というところです。

 理念とかイデオロギーだけの総論で冷たく審きを語るのではなく、審きを語りながら、他方、牧者として自分の羊や畑、そして民族が滅ぼされていくことを自分のこととして嘆き、執り成していくところに彼の苦闘の姿があり、生活現場での各論があります。

 総論(たてまえ)は立派だが各論(生活と行動)になると尻すぼみというのではなく、その緊張関係に耐えていくことが「キリスト教保育」の目指す人間像にとって大切な課題であると信じます。「公道と正義」が叫ばれるだけではなく「つきない川のように流れさせよ」との促しに応えて生きる者でありたいと自らも願わざるを得ません。

(サイト記)本文中で紹介される1976年の木田献一氏の著作タイトルは『イスラエル予言者の職務と文学 ー アモスにおける予言文学の成立』であり、「預言」という表記でなく、あえて「予言者」「予言文学」という語句を用いておられる。健作さんのテキストにも「予言」という表記が多いものの、「預言」という表記に変換して良い、と健作さんからは承諾をいただいている。

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