イエスへの知か信か《ヨハネ第一 2:18-27》(1981 週報・説教要旨)

1981.2.1、降誕節第6主日、
説教要旨は翌週の神戸教会週報

(神戸教会牧師3-4年目、牧会23年、健作さん47歳)

この日の説教、ヨハネ第一の手紙 2:18-27、「イエスへの知か信か」岩井健作
”あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。”(ヨハネの第一の手紙 2:27、口語訳)


 「反キリスト」という言葉は、強烈な響きをもっています。

 キリスト信仰の内容が危うくされていく契機を、単に外側からの攻撃だけでなく、内側に潜む問題性にまでメスを入れて捉える、信仰の危機の意識がそこにはあります。

 そして、長い前史があります。

 ヨハネ第一の手紙が書かれた時代より、およそ300年前、小アジア、フェニキア、パレスチナを支配したセレウコス朝シリアのアンティオコス4世(アンティオコス•エピファネス=現神王)は、度重なる戦争の費用を捻出するため、宗教的な独立を持っていたユダヤに傀儡の大祭司メラニウスを立て、エルサレム神殿の金の調度品を売り飛ばします。

 そして、これに反抗して起こった反乱には、宗教儀式の禁止、違反者は死刑の弾圧をもって臨みます。

 この有様は、ダニエル書11章20〜45節に、黙示文学として残っています。

 大きな宗教弾圧の中で、同じユダヤ人が一方で転んで、迫害に屈していく様を悩み、この思想的課題に、「これは終わりの時の、神による選別なのだ。その現れとして出現する勢力が反キリストだ」という考えを形成していったものと思われます。


 さて、ヨハネ第一の手紙の著者は、この「反キリスト」の思想の系譜で、当時直面したグノーシス(知識)主義の教師を見ます。

 彼らは22節の如く、「イエスのキリストであることを否定する者」と言われ、イエスの人格、生涯、わざの中に(つまり、人間の歴史への鋭い問いとして)神を見ようとしません。

 ”偽り者とは、だれであるか。イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子とを否定する者は、反キリストである。”(ヨハネの第一の手紙 2:22、口語訳)


 信仰を切迫した危機の中で捉えないのです。

 それに対して、ヨハネは罪の自覚を促し、イエスの生に結び合わされていく決断を迫らない信仰は、神についての知識、イエスへの知に過ぎないのではないか、そんなものからは「教えてもらう必要はない」(27節)と言います。

 ”あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。”(ヨハネの第一の手紙 2:27、口語訳)


 問題は「キリストからいただいた油がとどまっていること」(27節)の欠如、つまり、イエスの生き方、生涯の中に示された「神の然り」に「信」を置くことの欠如にあり、時代が険しく、「反キリスト」が暗躍する時こそ、そのことの自覚が大切だ、と訴えているのが、この箇所です。

 各人は、状況が厳しい程、「反キリスト」に直面するし、また状況が厳しい程、イエスによって成し遂げられている救いの確かさの中に置かれていることへの「信」を厚くして生きるように励ましを受けていないでしょうか。

(1981年2月1日・8日 週報 岩井健作)


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1981年 説教

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