1979.4.1、復活前第二主日、神戸教会
説教要旨は4月8日の週報に掲載
▶️ 健作さんの”ゲッセマネの祈り”
(牧会21年、神戸教会牧師 2年目、健作さん45歳)
マルコ 14:32-42、説教題「ゲッセマネの祈り」
マルコ福音書は、イエスを受難の「人の子」として示してきていますが、このゲッセマネの祈りの物語は、そのクライマックスをなしています。
「恐れおののき」「悩み」「悲しみのあまり死ぬほどである」という苦悩の極致、底なしの絶望を伝える言葉を通して、その壮絶さが伺われます。
使命半ば、その終局を迎えんとする業は「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」という神への全き信頼によってのみ開かれています。
そしてここでもマルコの主張である「弟子たちの無理解」が殊更に示されています。
目を覚まして、イエスの苦しみに心を馳せることなく、眠ってしまう弟子の姿が描かれています。
「なやめるイエス君、ひとり祈り給う」と讃美歌(133番)の一節にもありますが、最も慈しんでやまない者たちの只中にありながら、なお無理解に囲まれ存在し給うこと、これをある人は「神の臨在の様式」だ、「神が人の傍らにいまし給うとは根源的にこういうことだ」と言っています。
私たちはここで、こういうことに思い当たらないでしょうか。
自分が親しい人にさえ理解してもらえない辛さを味わう時、多少でもそれに耐えて、祈りへと心を導かれる時、神が私たちに関わり給うことへと思いを馳せる恵みへと開かれているのではないかと。
さて、この物語の初めの言葉、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」(32節)は慰めに満ちた響きを持っていないでしょうか。
こんな経験を思い出します。小さな子供の頃、苦しい病気をした時、母親がそこに座っているだけでどんなに心強かったか。
イエスは、弟子たちが座っているとことで、イエスの苦しみが分かるから座っていることを命じているのではありません。
しかし、それにも関わらず、苦しみの場に居合わせるように促され、命じられていることには、弟子たちの弱さの現実を包む、イエスの真実が溢れています。
ここには、祈りにおいてしか超えることのできないような世の苦しみの傍らに、眠ってしまうような弱い者が、なお「座って」関わることが命じられ、また許されていることを知らされます。
「祈りは本来的に神の恵み」(キリスト教教育辞典)といわれますが、私たちも自分の力でどうにもならないことの傍らに、祈りにおいて侍る✳︎恵みに生きたいと思います。
(4月1日説教要旨・岩井健作)
(✳︎ はべる:慎み深い態度で居る。控える。サイト補足)