ガリラヤのイエス《マルコ 16:1-8》(1979 イースター礼拝説教要旨・週報・教会会報)

1979.4.15、復活日(イースター)礼拝、神戸教会
▶️ 説教要旨は「神戸教會々報 No.90」(1979.4.29発行)所収

(牧会21年、神戸教会牧師 2年目、健作さん45歳)

マルコ 16:1-8
『……イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と』(マルコ福音書 16:7、口語訳 1955)

 死せる者、逝きし者を追慕することは、生き残された者の抑えがたい情でありましょう。

 イエスに従ってきた婦人たちも、その点、切なる思いを持って、長い安息日の終わるのをじっと待っていたのではありますまいか。

 安息日はユダヤでは様々な「禁止」規定のある日でした。墓に納めたイエスの遺体に、香油を塗って、親愛の情を表すことも、いろいろな規定に触れたに違いありません。

 安息日の間、息をこらしていた婦人たちが「安息日が終わったので……香料を買い求めた」(16:1)というマルコの復活物語には実感がこもっています。

「誰が墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」(16:3)と彼女たちは、イエスへの追懐の気持ちと行動に、誰もが手を貸してくれるものと当然のように語り合います。

 しかし、思慕という情念でしか繋がり得ない彼女たちの前に、自分たちの力では動かすことのできない巨大な石が置かれていたという物語は意味深いものではないでしょうか。

 彼女たちが出会おうとしているイエスは、彼女たちの理解の中に取り込まれた追憶のイエスです。考えてみれば、これは何と自分本位なことではありませんか。

 墓の石は、自分の周りの人が自分に手助けをしてくれて、自分の目的が果たされていくような情のおもむくままの生き方を遮っています。

 復活の告知は、こういう生き方、こういうイエスとの出会い方に「否」を告げることから始められています。

 神は十字架の死に極まったイエスの生涯とそのなせる業において、私たちと出会っているのに、私たちが自分流にイエスへの答えを持つならば、神は神のやり方で、もう一度イエスへの出会い方を導き給うのではないでしょうか。

 それは墓の入り口から石が転がしてあったという事実を目で確かめ、「あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない」(16:6 口語訳)というメッセージを耳で確かめることによって促されます。

 イエスはわたしたちの「自分の思い通りになる」という延長線上においてではなく、それが神のやり方で見事に潰されていく彼方で出会う方であることが示されます。

 さて、マルコ16:7について詳細な釈義的研究を発表している荒井献氏(新約学者)によれば、1節〜8節の伝承中、7節は元来マルコ著者によって、当時の教会の「イエスの復活理解の固定化」への批判として挿入されたものだと言われています。

 自分流の観念化されたイエスの復活理解に対して、復活信仰の真の意味は、神が私たちに「よき音ずれ」として遣わされたイエスの全生涯にもう一度新たに出会うことなのだと「ガリラヤのイエス」を告げています。

 ガリラヤは、権力構造に集約されていく人間関係の渦巻くエルサレムではありません。

 エルサレムに象徴される力の世界と訣別する決断をするとき、私たちはガリラヤのイエスに出会うことができるのであります。

 ガリラヤは弟子たちの初心の場所です。

 信仰の初心を持続するときイエスに出会うのではありますまいか。

 また、ガリラヤは日常性を意味します。

 日常の出来事の中に神の「然り」を聞き取るとき、イエスは私たちの傍に居られるのではないでしょうか。

『わが涙よ、わが歌となれ』(原咲百子、新教出版社 1979.3)の中で、今は亡き著者が、自分が不治のガンだと知らされた日の日記を「私の生涯は今日から始まるのだし、これからが本番なのだ」と書き始めています。

 ガリラヤで出会うイエスは私たちにも、このような促しをもって出会われるのではないでしょうか。


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ガリラヤのイエス(1979 神戸教會々報 ③)

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