わたしが弱い時にこそ《Ⅱコリント 12:7-10》(1979 兵庫教区婦人部総会礼拝)

1979.4.18(水)、兵庫教区婦人部総会礼拝、神戸教会
(4月22日の神戸教会週報に掲載)

(牧会21年、神戸教会牧師 2年目、健作さん45歳)

”わたしの力は弱いところに完全にあらわれる”(Ⅱコリント12:9、口語訳)

 パウロはこのところで「わたしの肉体に一つのとげが与えられた」と言っている。

 ここではなかなか治りにくい病気のことが、体に刺さった「とげ」と言われている。

 私たちは、健康な時にはそれが当たり前だと思っている。

 むしろ、それが当たり前ではなく、どんなに恵まれたことか、ということの重大さに気づいていない。

 治りにくい病気にかかると、人は病気と闘うというより、長い間かかって病気と付き合わねばならない。

 そして、それを一つの事実として、自分の生き方の中に抱え込み、受け入れざるをえないとしても、苦しみ多いことだ。


 ところがパウロは自分の病気について「与えられている」という表現をした。

 これは並の感覚ではない。

 病気は体をむしばみ命を侵す。それ自体を肯定的に受け取ることはできない。

 もしそれを「与えられている」というなら、病気を媒介にして、自分をなお活かす神との関係を自覚した信仰の告白以外ではありえない。

 しかし、神はそのことを通じて、何をなされようとされるのか。

 そのことは自明ではない。そこに「三度」に及ぶパウロの祈りがある。

「彼(サタンの使い=病気)を離れ去らせて下さるように」(8節)と。

”そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。”(Ⅱコリント 12:7-9、口語訳 1955)

 そして、彼には「わたしの力は弱いところに…」(9節)の言葉が与えられる。

 宣教の業が「病気=弱さ」故に思うように進展しないと考えていた彼は、ここでもう一度潰れる。

 弱いところに働く神の恵みをもって証しするのが宣教の姿勢ではないだろうか。

 自分の出来やすい手の先、口の先で奉仕していると思っている宣教の業を顧みざるを得ない。

 どうにかしてそれを克服していきたいと願う。


 中谷康子さん(自衛隊合祀拒否訴訟原告)は、訴訟に至るまでの半生を自ら語った時、それを「すべて主によって備えられたこと」と言った。

 そこには「与えられた」とパウロが言ったのと同じ質の信仰の告白がある。

 しかし、今「信教の自由」や「政教分離」を厳密には考えない「国」によって控訴されている。

 これからまた、今まで以上の「裁判」に付き合わねばならないとするなら、それは弱いところに働く恵みをもって証しの戦いをする以外にないのではないか。

 しかし、そこに希望もある。婦人の手で支えていただきたいと思う。

(4月18日 教区婦人会総会礼拝説教、於神戸教会、岩井健作)


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