卑しき者への顧み(1975)

1975年12月14日 待降節第三
岩国教会週報「先週(待降節第二)説教より」ルカ1:46-55

(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)

この卑しき女をさえ、心にかけてくださいました(ルカ1:48)

 理屈としては正しいことを語ったり、聞かされたりしているようで、どこか自己弁護の影がつきまとって、心の底では通じ合っていない、という経験をすることがある。真理が一人歩きをしている、といった感じである。野田茂徳(ロシア哲学研究者)が「標本箱の中の《言葉》の奪回」という文章の中で、「ロシア語の"プラウダ"は真理という意味だが、それが神の介在しない《ことば》ではなくて、愛によって内在化することでしか捉えられない意味を持っている」と言っている。マリアの讃歌(ルカ)が褒め称えている事柄は、真理が一人歩きしているような世界が破られて、何か別な通じ合いへの道が開かれたことへの讃歌ではないだろうか。例えば、詩人リルケにまつわるエピソードを思い起こす。ある公園で施しを乞うている老婆に、ポケットを探って銅貨一枚すら見つけることが出来なかった若い詩人が、通り過ぎてしまわずに、限りないやさしさを込めて一本のバラの花を捧げた時、不幸に打ちひしがれた老婆は感動に身を震わせ、そしてそれ以来施しを乞う姿を見かけることがなかったという。愛によって内在化された関わりを感じるエピソードである。私たちは銅貨によって象徴される力の関係の中に身を置いている卑しさをもつ。しかし、ルカのマリア讃歌は「権力ある者を王座から引き下ろし、卑しい者を引き上げ」(1:53)と歌う。どうしようもない力の関係を破る出来事、そこからの自由の経験と共に、クリスマスの訪れはやってくるに違いない。

(1975年12月7日 待降節第二 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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