岩国に住む − 個からの行動(1973, 2014 岩国)

「福音と世界」1973年5月号(新教出版社)初出
兵士である前に人間であれ』(岩井健作、ラキネット出版 2014年、p.99-110)再録

(岩国教会牧師8年目、健作さん39歳)

 ベトナム停戦のニュースで米軍基地の街・岩国にスポットがあてられた頃、基地の今後と市政の問題でTVに出演した岩国市長・朝枝俊輔は、もう一方の出演者・熊井智也地区労議長を前におきながら、「岩国で基地反対運動や平和運動をやっているのは市民のみなさんではなく、よそから来た人たちである」という意のことを平然と言ってのけた。残念ながらその画面を私は見ていなかったので、この発言に抗議はできなかったが、二、三の人に確かめると「よそから来た人たち」といったのは間違いないし、彼の意識はここ二、三年来反戦運動といえばマスコミに必ず登場し、国際的広がりを持つべ平運にあったようだと言っていた。

 よそから来た人たちといえば、セクトでは中・四国地方の「中核派」の人たちもよく来る。彼らの果敢な戦いは、基地北門の基地側によるバリケードを戦場におけるが如きものにさせた。人の背たけほどもある円筒の枠に有刺鉄線をぐるぐるとまいたバリケードを、婦人や子供を交えたべ平運のデモにまで持ち出させるようにした。どの派のデモにしろ、岩国で「基地反対」をかかげる行動には、それなりの共感があるので、出来る限り現場にいくことにしている。だが、彼らの現場に行った時、遅れたのと子ども連れだったので、早足に行進するデモに、日曜の繁華街の雑踏をかきわけて追いつくのがやっとだった。整然とした四列縦隊、林立する画一的な旗、白ヘルと黒のいでたちとナップザックの青色が妙に印象に残った。しんがりの四人がしっかりと隊列をしめ、ばらばらとその後に続くのは私服刑事と報道陣。隊列の中には顔を合わせれば個人的には知っている若者がきっといるであろうに、と思いつつも、歩調をとって眼前から遠ざかる一団に、よそから来た軍隊を感じた。

 最近、教会に来だした女子青年のFさんが、自分は友達が欲しくてセクトのある人たちとつき合い、セクトの集会にも出たと言っていた。彼らの階級闘争理論も分からぬではないのだが、話をしていて、話している内容よりも、それを話す行為の中にエゴイズムを感じてしまう。そんな彼らに「”兵士”になればよいのだ」と言われたときは、すごく侮辱を感じたと言っていた。これは論理のレベルでの批判ではないから印象の域を出ないが、少なくとも「兵士」を集めるという感覚で運動を持ち込んでも、そこに住んでいる人は、彼らを文字通りによそから来た人としか感じないであろう。

 だが、市長がよそから来た人たちといったのは彼らのことではない。よそから来て岩国に住みつき始めた人たちのことであり、少なくとも、力だけでは追い払えない人たちである。この街に馴染みのないものがやって来て、はじめは小さいが、やがて力関係で市民権を得るといった事柄以上のものを感じさせる人々のことである。

 今、今津町に住みついたべ平連の若者たちは確かによそからやって来ている。だが、岩国のべ平連はベトナム戦争が生み出し、ベトナム人の戦いに養われて育ったことだけは間違いない。最初、反戦叛軍行動に立ち上がった白人の米軍兵士たちが、その後帰米してアメリカの白人社会の中に理没してしまったとしても、それに呼び覚まされた一人の岩国生まれで、岩国で学校を出て、岩国で下級官吏として生活していた青年によって、この運動は起こされた。個としての人間によって始められたものである。

 その継承として若者たちが岩国に住み始めた。一ロに住むと言ったが、家探し自体がいつも権力による妨害に出合っている。「家主さんは、日本の私服刑事がいつも家の前に車を駐めているのに疲れてしまったのだ……その冬はまた、わたしたちの家主さんが……わたしたちを嫌ってしまった季節でもあった」と岩国にいた活動家・ヤンが書いている(ヤン・イークス・小野誠之著『戦争の機械をとめろ』三一書房、p.203)。彼らは三度も家を追い出されている。1971年秋、彼らが反戦喫茶の計画を立て、四度目の家探しを始めた頃、岸信介がバックアックする『時事日本』という新聞は「赤軍派、岩国に登場か?」という見出しで、アパート探しの彼らを妨害した。その記事の中には「キリスト教の教会や牧師が保証するからとて、絶対に安心できない。それどころか、反って悪い結果が多い。どうやらキリスト教と赤軍派は密接に連絡しているらしい」(1971年11月29日)とまで念を入れて書いている。根も歯もないこと、と当の牧師・田口重彦さんと笑ったものだ。結局、教会関係のある婦人の紹介によって、いささかの僥倖と八万円という高い家賃で二年間の契約で家が見つかった。これが反戦喫茶「ほびっと」である。

 さて、問題は住みついた者たちの暮らし様の中味である。開店一年、この店は多くの試練に逢っている。いわゆる六・四の弾圧事件(テルアビブ事件に関連させ、赤軍派への銃の受け渡しが米兵からこの店で行なわれたというデッチアゲによる家宅捜査、実は市民と店との切り離しを狙ったもの)。基地当局による米兵への立入禁止令、等々。こういった中での住みつき方をふり返って、店主・中川六平氏は運動面での反撃もさることながら、「くらしの拠点化」という発想を大切にして住みついて来たことを明らかにしている。コーヒー屋だからこそ、コーヒーを作ったり、客と話したり、好きな女の人ができて将来を語ったりする。彼はこんな「くらしの顔」を一方で持ち、他方デモや集会をやり、ビラを作り配り、討論のときなどいかにも流暢に「……のために」語りきり、そのことが人間の価値判断の基準であるかのような気になっている顔「運動の顔」も持っている。岩国では彼らの運動の顔だけで権力から攻撃されているのではなく、喫茶店という「くらし方の根」を痛めつけられているのだから、くらしはくらしとして権力の攻撃からの安全圏に置いておいて、運動だけで勝負するのとは違う。だから、運動の顔を包み込むようなくらしの顔をつくりあげていくことをしなければ続けられない。そして、それは自己自身の内面的生き方にまで掘り下げられてこそ意味をもつ。なぜなら、そうしなければ、何人かの共同の働きでもってはじめて住みつくことのできるくらし自体が内側からこわれてしまうからである。

 その辺りのことを、中川六平氏はこのようにいう。「くらしの拠点化、この根もとは、ぼくが、ぼくの心を他人に開いていく、ということではないだろうか。そう思う。しかし、そう思う、というのは容易であるが、日々のくらしのなかで、自分の心を開いていくことは、実にシンドイ、コワイのだ。……(反戦喫茶)『ほびっと』でのくらしの中で、数えきれないほど、ぼくは、ぼくの内にある、そのコワサと、向かい合っていくことができなかった。心を開く、ということを、具体的な表現としてやることのできないのが、ぼくのくらしだ。ぼくは、ぼくの内にある、コワサと向き合っていかなければならないだろう」(「思想の科学」1973年3月号)。

 自分のコワサの内容をどう捉え、それとどう取り組むかは彼の今後の課題とするとして、岩国に住んで反戦平和の運動をしていくことをここまで煮つめ、持ちこたえていることに私は共感する。このようなくらしをたずさえて、岩国に住み始めたということは、保守か革新かというような政治イデオロギーで、一般市民の中で特異だからよそ者だというのでなく、人間関係を支配する政治力学において、いずれかの役割に組み込まれる可能性をもつ単位としては扱えないという意味で、よそ者の人間が住みつき出したということである。運動の顔は、なすべき行動をたくさんもっている。しかし、その顔は行動が日常化する中で個々の人間が持つ顔ではなくなり、運動の仮面となるだろう。個を失った仮面は、いつしかよそ者ではなくなる。冒頭の市長の言葉を逆手にとるなら、岩国に住みつきながら、いつもよそから来た者の如くありたい。この街に住み続けるためには、この街のあらゆる面の体制に組み込まされていかざるをえない。他方、この街で反戦・平和の運動をすることは、運動面での戦いと同時に、経済、社会、政治、文化、宗教、教育などの面で、体制に組み込まれることを拒む戦いでもある。ところが実際は住みついてみると、生活のある部分では戦っていると思っていても、ある部分ではすっぽりと体制を補い支える役割を果たしている。頭かくして尻かくさずといったぶざまなかっこうでしか自分の姿を捉えることができない。岩国に住む、とはそういうぶざまな自分をどれだけ自覚し、それに耐えて生きるかということにほかならない。

 さて、体制への組み込まれを拒むという点で、身辺のことを語らねばならない。私が岩国に住んでいるのはほかでもない、この街の一地方教会の牧師であるからである。教会は今のところ「ほびっと」のようには権力の攻撃にさらされてはいない。この街の二つの教会の前代の牧師たちも保守の地盤の中では目立つ活動をしてきたので、牧師がアカ呼ばわりされ、教会がそういう目で見られて来たぐらいのことはあろう。しかし、教会が無自覚のうちにしろ体制の中に位置づけられ、それなりに組み込まれて来たことも事実である。それだからこそ、「体質改善論」を自らに課し、「戦責告白」の姿勢を、今の状況の中で、自らの体質にすべく努めてきている。しかし、教会の体質がそう一朝一タで変わるものではない。人間関係を直々持ってみると、権力関係には意外と弱くもろい面が出て来るし、他方、信仰における個の確立において、前近代的人間関係のしがらみを辛苦をなめて断ち切りつつ成し遂げてきたと言いつつも、現体制の市民的社会を補完する意味での個の域を出ていないことに気づかずにいるといった例がままある。こういった教会の体質の中に直接的に組み込まれてしまうならば、もはや牧師は最も身近な教会という体制の中にのめり込んでしまうことになる。戦責告白の、告白の姿勢を新たなる状況で持続することは、このような「教会の体制」に対していつも「他者」であり続けることだと思う。中川六平氏のセリフではないが、思うということは容易であるが、日々の営みの中でそうあり続けることは難しい。先に、岩国にやってくるセクトのことを語ったが、彼らの過ちと同じく、よそからやって来た者が「兵士づくり」をはじめるような落とし穴もある。

 教会の一婦人がある時「鈴木正久牧師の戦争責任告白は当然のことだと思うが、鈴木先生が一兵卒として戦場に行った苦しみの中からあれを言っておられるのなら、もっとみんなの心にはいっているんじゃあないだろうか。そうでないところに加えて、戦責が戦後世代によって語られたところに、一つの問題が残った」ということを語ってくれた。これはまさに落とし穴をついた発言であって、自分の問題をつかれていると感じた。戦場の苦しみを負う一兵卒としての言葉でなければ、ただでさえ前近代的国家の枠組の中で生き、権力関係に弱い体質のところでは、新たなる「将校」の声としてしか響かなかったであろうし、他方、体制的市民社会の中に安住している人にとっては、生活をおびやかす告発としてしか受けとられなかったであろう。「一兵卒」の苦しみの中から語ることは、中川六平氏の発想の「くらしの拠点化」と同質の問題である。

 「一兵卒」の声といえば、奥崎謙三著『ヤマザキ、天皇を撃て!』(三一書房 1972)を読み、その強烈さに圧倒された。ニューギニアの暗い密林で屍をさらした無数の戦友たちへの「贖罪」をなすために、天皇にパチンコ玉を撃つ行為を遂行する、その実行までの軌跡を記した手記である。その一節で氏は次のように述べている。「どんなに世界一強い意志をもった人間でも、この地球上で一人だけ生きていくことはできないというあたりまえのことに独房(天皇を撃つ前に他の事件で入っていた)で私ははじめて気がつきました。……私は、人間というものの非力さと限界を知ると、私を……生かしてもらっていることが、自然(神)に対してありがたくて、あまりのもったいなさ、うれしさに、独居房で何回も涙をこぼしました」(同書 p.227)。そこには、ゆずることのできないありのままの個が強靭に立てられている。このような個なしでは天皇、あるいは天皇的なるものは撃てないことをありありと感じさせられた。

 岩国に住むということは、私にとって最も身近な隣人である教会の人たちに、自分の非力さと限界を担い続けるという苦しみの中から語り続けるということであり、他方では自分が呑まれるかもしれない強固な体制として教会の人たちを拒否し続け、くらしの根底が脅かされるような地点から語り続けるということでもある。そのような自分を持ち続けながら、諸運動にかかわっていくことが運動における個からの出発だと考える。地元米軍基地への反対運動や米兵士へのかかわり(NCC岩国兵士センター)をはじめ、福祉、公害、人権、差別といった諸領域の生々しい現場の闘いから送られて来る運動の実践課題は山ほどある。とても関わりきれず、運動の面でもぶざまさをさらしているが、少なくとも、現場にただよう深い悲しみには心をはせたいと思っている。

 イエスは、ゲツセマネで弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」(マルコ 14:34、口語訳)と語った。弟子たちはイエスの呼びかけにもかかわらず、深い悲しみのかたわらで、肉体の弱さゆえに眠ってしまった。しかし、たとえ眠ってしまうことがあるにしても、「ここに待っていて(新約聖書ではこの語は31通りの日本語に訳されていて、生きながらえる、住み込む、住む、とどまる、宿る、など大変含みのある訳がされている)」というイエスの招きが呼びさます醒めた人間を志向しつつ、岩国に住んでいきたい。時が満ちるまで。

(岩国教会牧師 岩井健作)


「ほびっと」とわたし – それぞれの50年(2021 岩国・反戦喫茶 ほびっと)
『ほびっと』から(2019)
ほびっと ぼくになにができるか?(2009 岩国・望楼 ⑨)
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