1972年12月31日 年末聖日礼拝 岩国教会週報
「先週(クリスマス)説教より」マタイ2:1-12
(岩国教会牧師7年目、健作さん39歳)
彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。(マタイ2:9)
マタイの星の物語は、天文学者ケプラーによると、紀元前7年の魚座での木星と土星の大接近に由来しているという。この物語は一方で、ローマ皇帝アウグストの栄光に結びつけられていたという(シュタウファーによる)。マタイは、これをイエスに結びつけた伝承を語り伝えた。
アウグストは権力の象徴である。ヘロデ王もその系列にある。本質的にそれが示すものは、外からの力による人間関係、上から下への関係である。軍事力(アメリカの北爆再開!)、経済力、政治権力、等々。そこには、人間の内面に呼びかけて応答を耐えて待つという働きかけはない。つまり、この系列の人間関係の中心では、人間は根本的には揺れ動かない。心理的動揺も感情のレベルで処理され、人間関係も調整で事足れりとされる。自己を捨てるとか、古き自分が死ぬという揺れもなければ、不安や戸惑いもない。もし、もう一方の極みの象徴であるイエスがいなかったなら、我々はアウグストの引力に引っ張られ、支配され、その力の中での戦いもやがて疲れてしまうであろう。だが星が、アウグストの引力圏で目覚めている者を「幼な子の所まで」導いたとこの物語は告げている。もし幼な子に示されている固有な実存(それは我々がこちら側から付け加えたり解釈したりすることの出来ない固有なものとしてある)がなければ、パウロのような「死にかかっているようであるが、見よ、生きており」(コリント第二 6:9)という逆説も語り得ない。幼な子の存在は、我々の一番内部を揺り動かす。ヘロデのように不安にさせられる(マタイ2:3)。もうひと皮自分の人生を剥き出させる存在である。だが、そのことがアウグストやヘロデからの脱出であり、救いである。幼な子に出会う時のみ得られる自由を味わった者は、もはやヘロデの元には帰らなかった、という物語は、ほんとうである。
(1972年12月24日 クリスマス 岩国教会 岩井健作)


