地震で問われた教会と地域の関係 − 日本基督教団の場合(2006 学会シンポジウム)

キリスト教史学会 第57回大会シンポジウム
2006.9.30 於 神戸海星女子学院大学
テーマ「阪神大震災における教会」

1、地震を通してのプロテスタント教会(日本基督教団兵庫教区)の地域社会への関わりの変化

 神戸のキリスト教は文明開化と共に受容された。キリスト教の担い手は同時に新しい文明の担い手であった。それは幕末の士族であり、明治の知識層であり、近代神戸の発展を推進した中産階級であった。この社会層は神戸では最初期、主として「山の手」地域の住宅地を形成し、そこに居住した。しかし、阪神淡路大地震の激震地域はこれらの「山の手」住宅地域ではなかった。須磨から東灘の帯状幅300メートルの「浜側」の埋め立て地域が地震断層線上にあった。この地域はもともと漁村が点在していたが、神戸の街が国家の明治以後の「富国強兵」政策によって船舶、鉄鋼などの重工業をもって発展しだして以後、主として但馬・播州、さらには沖縄、朝鮮より流入した労働力の担い手の人たちが新たに住み着いた勤労者住宅地域である。

 「山の手」と「浜側」両居住者の歴史的背景を考えると、その差異は歴然としている。そうしてキリスト教を形成して来た教会の担い手は現在に至るも中産、知識層が多い。地震による被災のうち一般的インフラの都市災害という点では両地域は重なる部分を持っていた。しかし、被災の影響は、「浜側」の弱者層をまともに襲った。この弱者層を教会が「隣人」として把握するには時間がかかった。教会には住宅地の隣人はいたが、激震地勤労者層の居住地域には日頃から具体的隣人が少なかった。当然、被災者への連帯・救援には断層があった。さらに、日本の政治・経済・社会構造が「東京一極主義」である事は、地震を経験して多少の救援活動に携わったものは心底から味合わされた出来事である。一般の救援活動でもかなりの「温度差」が報じられていた。

 この構造は「日本基督教団」でも例外ではなかった。筆者は「教団側」と「現地・兵庫教区側」の間で筆舌に尽くしがたい経験をした。しかし、いち早く兵庫教区は、プロテスタントの伝統的教会が激震地弱者と落差を有する事を自覚し、今までの福音理解の限界を、地震を契機にして克服すべき活動と努力がなされた事の報告が今回の発題の基本的テーマである。

2、活動の実際

 兵庫教区は中央との落差や今までの常識的福音理解とはきしみを生じたが、「教会の復興は地域の再生なくしてはあり得ない」(当時、北里秀郎兵庫教区総会議長)を救援活動への基本姿勢として掲げた。全国の教会からの当面の募金(第1次募金)は災害地域支援活動に用いるという方針を現地は採択した。しかし、中央の意識は、まず教会の復興という内向きものであった(これには、第2次募金、第3次募金をあてる運びとなった)。

① 被災地域への民間仮設住宅建設をまず行った。「住むこと」の課題を最優先のテーマとした。
 これは主として兵庫県被災者連絡会(河村宗次郎代表)の運動に連帯しつつ、「教団」が継続して取り組んだことであった。この応急仮設住宅は59棟を公園等に建設した。建設の理念は、被災者の居住地の地域コミュニティーを生かすことであった。多くの被災者団体に連帯しつつ、被災後の仮設住宅は如何にあるべかの問題提起に参加し、地域型仮設住宅への提言を繰り返し諸団体と共に行政に行った。「教団」の仮設住宅は、炊事場、トイレ、風呂は共同にして、助け合いを促す。住まいはプライバシーの確保のため独立した建物を作る。現実に一戸建てのプレハブやキャンプ用のカナディアンハウスを用いた。利用被災者は次の居住に目途がつき次第、次々と交替利用をしてもらった。公営仮設住宅は「仮設法」によりお馴染みの集合プレハブの長屋に限られた。問題点は抽選入所で災害前の地域社会生活関係がばらばらになり、入所と同時に、新たなる人間関係を結ばねばならない点である。大規模用地の関係で、ほとんどの公的仮設住宅は今までの都市部生活地から遠い地域であった。掛かり付けの医療機関に行くには電車賃と時間がかかり過ぎた。それに集合住宅なので音響のプライバシーは守れなかった。新聞をめくる音が隣に響いて、声を潜めて生活したという。各戸にガス風呂の設備があったが、燃料代を考えると低所得者には使えなかった。都心の私有地を行政が借り上げて、地域型仮設住宅を作るようにと、現地の専門家集団が提言したにも関わらず、当時の中央官庁は頑として耳を傾けなかった。日本基督教団応急仮設住宅はその中で、問題提起的意味を担った。公園等での使命を終わったものは教育機関などへ再利用を呼び掛け、公園からの撤収を計り再利用した。(キャンプ施設、障害者施設、辺野古団結小屋など)。

② ボランティア・センターによる仮設居住者訪問
 自らも被災者である金得三牧師(在日大韓教会牧師)が常駐訪問者となり仮設閉鎖時まで持続して行った。これは、被災高齢者との親密感を作り、仮設の生活の内側の問題に関わる事ができた良い例である。

③ 亡くなったこどもたちへの追悼コンサ−ト
 10年間「震災の日」を中心に神戸市中心ホ−ルで持続した。日本基督教団教育部は全国の教会学校のクリスマスの献金をその年必要なところの支援に送っているが、地震後兵庫教区に約一千万円が送られてきた。教区では実行委員会を組織、それを資金にし、518人の亡くなった子どもの氏名、学校、住所などを具体的に調査・記録して「記憶」と「追悼」をした。同時に「子供の死の意味」を考え続ける発信を続けた。コンサート出演者は、クニ河内、新沢としひこ、野田美佳、加藤登記子氏等、著名な音楽家が持続して参加した。筆者はこの催しの「挨拶文」を主催者から促されて10年間書き綴った。自分の意識を地震につなぎ合わせる事が出来た貴重な体験であった。

④ 緊急生活援助資金貸付金活動(仏教、キリスト教、一般団体の募金を資金に一所帯一万円の貸付。行政が法整備をする前の問題提起的意味をになった)
 この運動にも筆者は関わらせて戴き、貸付を受けた被災者の生の声を聴き続けた。

⑤ お米支援活動
 筆者は担当責任者を務め、兵庫県被災者連絡会と連携で行った。幼稚園児や有機農場の人の持続的応援があり、米が人を繋げた暖かい経験を与えられた。

⑥ 被災「障害」児・者支援活動

⑦ 各地炊き出し活動など

⑧ 上掲①②④の活動の延長線上で「日本基督教団兵庫教区・被災者生活支援・長田活動センター」(1995年12月設置、以後10年を経て現在に至る)が立ち上げられて、専従者(牧師柴田信也氏)を諸教会が支え持続的活動を行っている。センターは「教団」教会が地域の問題を担ってこなかった長田地域(在日韓国・朝鮮人、外国人労働者、中小零細企業、密集地)での活動を継続している(同センターニュース参照、震災以来の国内・海外の災害救援活動もセンターが中心に担ってきた)。
 同センターは2005年「被災地生活実態調査の会」に加わり、被災地居住の2314件のアンケート報告のまとめに協力した。これによれば「生活再建」への意欲を喪失した「復興離脱層」の存在が判明している(『被災地生活再建実態調査』2005)。住宅地の教会は、これらを自らの関心事として、宣教活動を行うきっかけとして阪神淡路大地震への取り組みを積極的に考えてきた事は、地震における教会の変化である。

3、地震がもたらした「キリスト教理解」への問い掛け

3−1、震災後鷹取で出合った二つのキリスト教
①「真理から現実への方向」
 地震後あまり時を経ない時期、長田の焼け跡で「重荷を負うて苦労している者はわたしのもとにきなさい − 伝道集会。◯◯教会」の電柱のビラを見た。会堂の被災をまぬかれた近くの福音派の教会の伝道集会案内であった。そこには、世の中の多くのキリスト教のイメージを感じた。重荷を癒すキリストがまず存在し、現実の苦しみを携え、そこに宗教的救いを重ねる事で、解決を見い出す。

②「現実から真理への方向」
 そのすぐ近くにはカトリック鷹取教会があった。「教会は会堂がなくなって教会になった」(神田裕神父)の標語を掲げて、仮設のペーパー・ドーム・チャペル(紙の教会)を拠点に、地域のベトナム人被災者への生活支援やベトナム語FM放送を持続していた。まず現実的苦悩を、同じ地平で共に悩む事で、希望を共有する。同じキリスト教でのこの違いが何からきているのかを考えさせられた。わが日本基督教団の現実は、この両極が、緩やかに混在し、共存していると言えるであろう。

3−2、「真理(福音)」は文言・概念・信条・教義など普遍的言語に対象化されてしまうと、その概念のままでは内容が抽象的になってしまって、人間生活の現実に生きて伝えられないで、宗教的観念、あるいはその体系の伝達となる場合が多い。
 「福音」の生きた内容を伝えようと思うと、「福音」と言語に纏められた時代のその歴史的文脈と、現代の解釈者が生きている現実との関連で、その福音が何であったのか、何であるのかを再理解しなければならない。「真理(福音)を伝える ー その語り手の共生の実相への批判的検証を包含しつつ」という思考の問題を抜きにして言語化されると「教条主義的・原理主義的」危険を伴う。

3−3、今「福音の伝達」を先の鷹取での経験との関連で整理してみる。
 「真理から現実への方向」の伝達の仕方を、「デジタル」的伝達と表現してみる。これに対して他方の「現実から真理への方向」を「アナログ」的伝達として対置してみる。この違いは、例えば、聖書の中に例をとって示すとすれば、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ 3:23-24)とあるように、これはデジタル(指し示すの意味)な方法での表明といえよう。福音の出来事の説明を通して、ある事柄を指示してはいる。歴史的教会の「信条」「信仰告白」はこの線上にある。歴史のある状況での真理の文言化としては意味を持つ。しかし、それは真理の内実ではない。少なくとも、生きた人格的(関係的)出来事としてしか実現化しない「福音」は、デジットでは指示にとどまる。これに対してアナログは「類比」という意味で、聞き手の想像力に訴えて、聞き手の現実に事柄を呼び起こし伝達・受肉化(生きた関係にまで)させようとする思考方法である。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(ルカ15:4イエスの言葉)の如くである。イエスはこの方法で多くを語った。アナログの表示は、想像力を暖めることで、真理の受肉化を促す。
 ある反省。第二次大戦下、確かに日本の教会では「信条・信仰告白」は正しく「告白」されていた。しかし、大勢では大義はどうであれ人間殺戮の戦争協力を余儀なくされた。この「信仰告白」主義のデジタル思考の完結性に対して、「地震」は「キリスト教の真理(福音)の理解の仕方」への揺さぶりをかけたのである。教会は地震に関係なく存在し続け、救援は教会の本質からの倫理的展開として為されるという理解である。これが揺さぶられた。このような本質が一度壊れて初めて、傷つき破壊された地域のその重荷を共に負う事で教会が教会と「成って行く」経験をしたのである。
 兵庫教区はこれを以下のごとき「状況的告白」として文言化した。活動と並行して自らの事態を表明した。筆者はこの表明の一端に関わった。筆者自らなお批判的視点は残しているもの、現在の日本基督教団の主流の「正統主義化・教条化」の現状に鑑みれば、これを評価するものである。さらなる歴史の検証のため全文を掲げる。


阪神淡路大震災被災教区の震災5年目の宣教に当たっての告白

 わたくしは、地震と災害に関わる経験を通して示された、試練と恵みの神の働きを信じる。わたしたちは、被災が一様でなく極めて多様で、それぞれに固有の生活体験であることを知る。しかし、その個々の生活に働かれる神の臨在を認識した。そして固定化した福音理解、感性と想像力に欠けた信仰生活が厳しく問われたと信じる。わたしたちは非常時の中で教会の地域社会への関わりと参与、その日常性のあり方を問われた。被災の現実から教えられたのは、隣人への関心、関係の豊かさを生きることであると信じる。わたしたちは、大地震という未曾有の出来事を経験した。おびただしい死を前にして圧倒されながら、悲しむよりほかない現実と向かい合うことの大切さを知った。同時にイエス・キリストにおいて歴史に啓示された神は、被災のただ中にも臨在されていることを信じる。わたしたちは、現実の苦難の中にある生命の営みと、その出会いの中にこそ神は居られることを信じる。その信仰によって未知のものを踏み分けつつ言葉を紡ぎだしていくことが福音宣教と信じる。わたしたちが被災の現実の中で、『地域の再生なくして、教会の復興はありえない』として歩んできたことが、神の前に立つわたしたちの信仰の応答であると告白する。


震災当時、
日本基督教団神戸教会牧師
日本基督教団阪神大震災救援活動センタ−運営委員会・地域委員長
日本基督教団兵庫教区地震対策委員


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