子育てのまなざし(1998? 父母の会)

父母の会のお話し(健作さん65歳?)何年のものか不明

「目が澄んでいれば、あなたの全身があかるい」マタイによる福音書 6:22


「子どもには居場所をあかす法師蝉」。知人の句。

 夏休み、樫の木の生け垣の根元を指さして「シッー」っと、手をひく孫の視線の先の蝉をつかまえる瞬間、久々に少年の時代の感覚を取り戻した。そんな私の話が背景にある。

 子どもと一緒にいると、低い目を経験する。表情のある目、友達の目、輝いた目、演技のある目、優しい目、受容の目。それはまた、二人だけの目、向かい合った目、にらめっこの目、2人称の目でもある。これと反対なのは、見下す目、拒否の目、すれちがいの目ではないだろうか。

 母を天に送って、母の自分へのまなざしが、長い目であったことをしみじみ思う。母手作りの、しゃれたチェックのお弁当袋を通学電車に忘れて来た時、「探してごらん」ともう一度駅に送り出された。小学校3年の時だった。

両親と兄・要さん、弟・勇児さん、右下が健作さん、おそらく小学3年生の頃。日本組合渋谷教会(文男さんが同志社卒業後、東京市渋谷区八幡通にて開拓伝道)にて。

 以来、よく物をなくすが、後始末の仕方も覚えた。失われた弁当袋の手触りは失われたゆえに、今も新鮮である。親の目は、性急な目、部分の目、感情的な目であってはならない。見守る目、責任のある目、冷静な目、客観的な目、観察の目、育てる目、3人称の目が大切である。愛のまなざし、出会いのまなざしと言うべきか。

 ここまでのことは、子育てをしている親たちには、感覚的に了解される。しかしもう一つのまなざしが一番大切ではないか。それは1人称の目だ。一人だけの目、沈黙の目、内省の目、耐える目、信じる目、祈る目、神に向かう目とでも言ったらよいのだろうか。子どもは親の後ろ姿を見て育つという。

 それは親がひたむきに生きる姿でもある。親自身が3人称や2人称の目を持つ余裕がない必死の姿である。親が子どもの人生のすべてに責任がとれるかと言えば、そんなことは不可能だ。「知恵遅れ」の子どもさんの親がこの子が不憫でならないと思っていた間は、自分の役割と責任に押しひしがれて、夜も眠られなかったと。しかし、この子は神が守り給うのだと信じることが出来た時、その子と共に生き始められたと。こんな証しをお聞きした。

 マタイによる福音書6章22節の「目が澄んでいる」というのは、この1人称の目のことを言っている。もっと言い方を変えれば、自分の方からは神様のことは分からないけれども、神の目は澄んでいて私を見守っていて下さる、だから澄んだ目で応答しようということなのかもしれない。

 子どもの目は澄んでいる。子どもが「神の国」に近いと聖書にあることに目をとめたい。

(父母の会のお話、5月20日)

1946(昭和21)年、加茂郡坂祝村黒岩に転居。創立時の坂祝教会。