母子像のイエス 神戸教会説教:原稿

神戸教会 2016.11.13 説教(幼児祝福式礼拝)

(健作さん83歳)

わたしはこの目であなたの救いを見た ルカ福音書 2:25-32


 皆様、こんにちは。今日はこのような機会を作って下さった菅根先生、役員会の皆さまに心から感謝いたします。存じ上げている方々には、お久しぶりですと、初めての方々にはどうぞよろしく、と御挨拶申し上げます。

 はじめての方もおられますので、少し自己紹介をさせて戴きます。私は、1978年から24年間、この神戸教会の牧師を務めさせていただきました。その後、鎌倉に13年程在住し、川和教会、明治学院教会の二つの教会のお手伝いをいたしました。今は群馬県のキリスト教の老人福祉施設、新生会で生活しています。教会は安中教会に出席しています。安中教会は、同志社の創立者、新島襄がアメリカから帰国し伝道した最初の組合教会です。安中の近郊で養蚕業をやっていた私の曽祖父がそこで、洗礼を受けたという繫がりがあります。

 さて、聖書の福音書は「イエスの生涯と業」を記しています。

 そこにはいろいろなイエス像があります。

 まず、「馬槽のイエス」です。幼稚園の子供たちのクリスマスのページェントには必ず出てきます。讃美歌で、私たちは「馬槽の中に産声あげ……」(121番,讃美歌21-280番)をよく歌います。

 それから「ナザレのイエス」または「ガリラヤのイエス」です。イエスは実によく各地を巡り歩いて「神の国」を宣べ伝えられました。これも讃美歌には「ナザレの村里……」(讃美歌21-287番)や「ガリラヤの風かおるあたり」(21-494番)で歌われています。

「十字架のイエス」のイメージはキリスト教理解の中心ですから、受難週の讃美歌は皆「十字架のイエス」を歌っています。カトリックでは十字架につけられたイエス像を掲げますが、プロテスタントは象徴的に十字架のみを掲げます。

 次に「ピエタ」ですが、十字架からイエスが取り下ろされて、母マリヤに抱かれているイエスの姿を言います。ピエタは西欧の絵画のテーマになっています。

「復活のイエス」の姿はルカ福音書(24:42)にあります。復活のイエスが弟子たちの前で、魚をむしゃむしゃと食べる話などリアルなイエスの姿が書かれています。このように福音書には様々なイエス像があります。

 さて今日はこれらのイエス像のイメージにもう一つ「母子像のイエス像」を加えて下さい、というお話しです。

 今日は幼児祝福を受けるために子供さんを抱いているお母さん方がお集まりです。他の言葉で言い換えますと、今日は沢山の「母子像」が神様から招かれてここに居られるという思いがします。イエスも母に抱かれた「母子像」の姿で聖書に登場しています。

 ルカ福音書2章の今日お読みした聖書のテキストには「母子像のイエス」が暗示されています。

 マリヤが幼子イエスを抱いている姿です。聖書の中に「母子像のイエス」という言葉はありませんが、キリスト教の美術では伝統的なテーマになっています。

 母子像と言えば、先般NHKの日曜美術館(8月7日)で母子像の画家といわれる「メアリー・カサット」(1884-1926)が紹介されていました、和やかな母子像です。今、京都国立近代美術館で「カサット展」(12月4日まで)が開かれています。

 日本でも画家の西坂修(1911-1999)の母マリヤとイエスを画いた「エジプトへの逃避」という「聖母子像」がよく知られています。ヘロデに追われて逃げているというのにロバに乗った母マリヤとイエスは何とも穏やかです。

 マリヤに抱かれたイエスを画いた絵画を「聖母子像」と言いますが、西洋美術では大きな流れを作っています。古くはイタリアの中世の画家ジョット(1267-1337)、近世ではラファエルとかアングルの「聖母子像」が有名でなじまれています。

 さて、それぞれが自分の母の「母子像」を想像してみて見て下さい。

 私にとって自分の母の「母子像」を思い浮かべることは、両親に聞かされたお話しのイメージを思い浮かべることです。

 両親は、賀川豊彦に招かれ岐阜県で農村開拓・自給伝道に携わった時代があります。私はその時に生まれました。私は次男ですが、子ども三人を抱えてひたすら伝道に励む母の姿が思い浮かびます。母は終生、伝道者の妻で伝道に熱心でした。両親は晩年20年を群馬県の安中で生活し、父は新島襄にちなんでたてられた新島学園の校長を務めました。図らずもその安中にご縁を持たせて戴いています。

ご両親(岩井文男、まき江。岩国教会を訪ねた際、錦帯橋)

 先般、その安中教会の会員の方から、ちょっと相談に乗って欲しいといって、ご夫妻して私共の所にこられました。情報としてはお聴きしていたのですが、実は、その息子さんは神学校をでて、神奈川県で牧師をしておられます。教会の牧会に差し障りにない程度で沖縄の「辺野古新基地建設阻止」の座り込みに行っておられました。ところが先般、8月にデモ隊と機動隊とがぶつかり合ったという出来事があって、2ヶ月も経ってから自分の教会で牧会に励んでいるのに、10月になって、教会に警察が来て、公務執行妨害という事で逮捕されてしまいました。今は拘留されているが、どうかそのことを覚えて祈って欲しいという願いを携えてこられました。ご両親は毎日手紙を弁護士を通じて差し入れておられます。

 そのお手紙はファックスで弁護士の所に送られて、毎日接見をしている弁護士がご本人に見せておられるそうです。その中にお母さんからの言葉がありました。全部見たわけではないのですが、拝見したものにはお父さんの激励の手紙に添えてお母さんの言葉が記されていました。

「一人ではないですよ、皆が祈っています。母より」

「ゆっくり寝て、次の礼拝の説教を考えて皆に希望を与えてください。母より」

「神さまが強く大きくして下さると思って感謝しています。母より」

 息子が留置所にいるというのに「神さまに感謝している」と実に落ち着いたお母さんです。正しいことをしているのだから神さまが守ってくれます、とも言っておられました。どんなにお辛いか、との想いを禁じ得ません。しかし、母の信仰の姿がそこにはあります。子供が大きくなっても母と子の関係の姿は変わらないなという思いがしました。一つの「母子像」を見たような気が致しました。

 安中教会の歴代の牧師の中には柏木義円のように社会正義のために戦った牧師もおられます。世の痛みを共にするお役目は時代が変わっても、何処に居ても変わらないと思いました。お励ましの祈りを捧げさせて戴きました。

 母子像には能動的な「母」の姿、受動的な「子」の存在、そして関係存在である人間そのものの姿が画きだされています。三つの面です。

 実はこれは「キリスト教信仰」の象徴でもあります。能動的な「父なる神」、受動的な「子なる神」、関係そのものである「聖霊なる神」の働きを表わしています。伝統的には「三位一体」の信仰と言っています。

 母子像は、そこに神がいます、という事の徴であり、象徴です。

 今日の幼児祝福の礼拝は、幼な子だけが祝福されるのではないのです。

 幼児と共に、お子さんを抱く母、両親、そしてそこに同席する礼拝参加者皆が祝福されているのです。

お孫さんとご両親(岩国教会)

 今日の聖書の箇所は「赤ちゃんのイエスさまが祝福される」場面です。当時の律法にしたがって奉げものを携えて、イエスの両親はエルサレムの神殿にやってきました。神殿に仕えるシメオンがイエスを抱き祝福します。メオンは老人でした。イエスを抱いて神への賛美を奉げます。またここに登場する女預言者アンナは84歳だと記されています。29節以下は「シメオンの賛歌」です。幼子イエスを抱く事を通して彼が「安らかに」最後を迎えることが記されています。

 ここは大変感動的です。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。/わたしはこの目であなたの救いを見たからです」とあります。

 私は今83歳です。神戸教会の幼児祝福の礼拝に奉仕させて戴き、この「安らかに」という言葉がことさらに身に沁みます。

 母と子の結びつきの親密さを詠んだ一つの詩を紹介します。

「はじめて母になった人も/あかちゃんを抱くのはうまい/やすやすと/上手に抱く/たくみにあやす/いくら練習をしても/父親ではうまくいかない/母と子のつながり/その結びつきに/ボクは頭をさげる」

(サトウハチロー詩・いわさきちひろ絵『あかちゃん』1989 講談社)

自宅(牧師館)が坂祝(中濃)教会堂:ご両親と高校時代を過ごした。設計段階はなんとヴォーリズ。この旧坂祝教会堂兼牧師館は昨2019年3月取り壊された。

 神戸教会員であった小磯良平画伯は「聖書の挿絵」三十二葉を画いています。挿絵のある聖書が日本聖書協会から出版されているのは小磯さんのものだけです。

小磯良平兄 1979年文化功労者に決定された際、教会有志によるお祝いの会 神戸教会

 小磯さんには母子像を画いた作品がいくつもありますが、聖書の挿絵の中でも母子像を画いています。

 それらの母子像は気をつけて見ないとまず見落としてしまうのですが、本当にさりげなく入っています。しかしこの5場面は、私にはかなり意識的に画かれていると思います。

 それらは聖書では皆大きな事件の場面です。

1,「海を二つにわける」。出エジプト記のモーセのエジプト脱出の記事です。紅海でモーセが手を上げて二つに分かれた海を民衆が渡る場面です。モーセの後ろに母と子がいます。

2,「ヨナ海に投げ入れられる」。ヨナが海に投げ込まれる揺れるボートに母と子がうずくまって乗っています。

,新約では「エルサレムに迎えられる」。ホサナと言って民衆がイエスを迎え留場面です。群衆の中に子を抱いた母がイエスを迎えています。

4,「神殿から商人を追い出す」。宮潔めといわれるイエスの生涯で尤も激しい場面です。悪い商人たちが怖じ惑う群衆の中に母子像が画かれています。

5,「十字架」。苦難の道行きとも言われますが、イエスが十字架を背負って刑場へと歩く場面です。そっと建物の中から十字架をかついで歩かされるイエスを見つめる母と子が入っています。

 母子像がそこにあることは、「神の祝福が与えられている」という事です。

 もっと大胆に言えば「神ご自身がそこに居ます。」という事です。

「母子像のイエス」には、他のイエス像では表わせない安らぎがあり、希望があります。私たちは、年配の者も、さらには年老いた者も含めて、今日の「幼児祝福の礼拝」に共に与った事に本当に感謝をささげたいと存じます。

祈ります。

「父なる御神。今日は僕をここに遣わして幼な子イエス通して示されたあなたの恵みについて語らしめて下さいましたことを感謝します。ここに侍る幼な子がやがてこの教会の宣教の主力になって、あなたの恵みを証しする日が来ることを夢見ることを得させてください。老齢であるにも関わらず僕が「安らかに」今日のつとめを果たすことが出来たことを感謝致します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」