安息日に麦の穂を摘む

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第93回「新約聖書 マルコによる福音書を読む」④
マルコ 2章23節-28節

1、日曜日は休日である。当たり前のような慣習が日本lこ根付いたのは明治以後である。明治の開国以後、西洋の技術を取り入れる為、「西洋人」を雇い入れた。彼らは日曜日には働かなかった。なぜなら、彼らの生まれ育った文化・社会は日曜日が休日だったからである。止むを得ず、政府は、明治5年12月から日曜日が休みの太陽暦(グレゴリウス暦)を採用した。それまでは旧暦(太陰太陽歴)を採用していた。盆暮れが休日で、日曜日を休むという習慣はなかった。形式的な暦の採用ではあったが、そこでも、その根本の精神は骨抜きにした。そもそも何で日曜日が休みなのかを探ろうとはしなかった。日本は「和魂洋才」といって、日本固有の精神を基礎として、西洋の学問・知識を単なる才能として学び取ろうとしたからである。西洋の学問・知識の根っこになっている「キリスト教」は取り去って技術文明だけを取り入れた。

2、日曜日が休みであることは、聖書的根拠に基づいている。そこには二つの経過がある。第一は「旧約聖書」の記述である。聖書の創世記の初め「天地創造の物語」の終わりにある。「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息をなさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息をなさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創世記 2:2-3)。「安息日に心を留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト 20:8-10)。後者は「モーセの十戒」 の第三戒であり、イスラエル民族には絶対的戒めであった。それはユダヤ教に受け継がれ守られている。第七日は週の最後の日「土曜日」であった。それが日曜日になったのは、二つ目の根拠である。新約聖書の記述である。「さて、安息日が終わって、過の初めの日の明け方……イエスは復活なさった」(マタイ28:1-10)。つまり、週の初めの日が、初代キリスト教では「復活のイエス」を覚える(礼拝する)日となった。日曜日である。以来、キリスト教文明が創設される中で、「礼拝を守る日」として、社会的習慣としても日曜日が休日となったのである。

3、イエスが、当時のイスラエル宗教では「絶対的」であった「安息日」にどう対処されたかのお話が「安息日論争」としてマルコ福音書に二つ載っている。安息日の掟を無視してイエスが「病気を治した」(3:1-6)話と今日の箇所「麦の穂を摘む」話である。イエスの弟子が歩きながら、麦の穂を摘まんで手でもみほぐして、ロに放り込んだ。これを知った律法のごりごり順守者パリサイ派の者達がイエスに文句を付けた話である。労働を禁じた安息日厳守の律法に違反しているという。おそらく、農村では「麦の穂を摘む」ことぐらいは日常茶飯事のことで、だれも咎め立てすることではなかったのであろう。都市文化の中でしか生活していなかったパリサイ派が、イエスを攻める為に使った手立てであったに違いない。これに対してイエスは「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから人の子は安息日の主でもある」と大胆な挑戦をした。初代の教会にとってもユダヤ教への挑戦であったのであろう。マタイ、ルカは前半の句を削ってしまっている。ダビデの例(サムエル記上21:1-6)を引用して安息日の厳格な適用が当時でも緩やかであったことを論証するために、あのダビデでさえ、サウル王に追われたとき、祭司に頼んで、祭司以外に食べることが許されなかった備えのパンを食べさせてもらったことを反論に使っている。

4、もともと「人間の尊厳」が活かされるのが神の戒めであり、「律法」の精神であった。無律法や反律法をイエスは強調しているのではなかった。新約聖書は「新しい律法」「愛の戒め」などという表現で、人間が「他者性」との共存の中で、人間であり得ることを説いている。「法」は「契約」であるとはその意味である。「法」を「権力」の行使の手段としてはならないことを、「安息日は人のため」「人が安息日のためにあるのではない」と言っている。現代的な文脈に置けば、少なくとも、「立憲民主主義」の精神にたつ「法」は「人」を活かし、権力を縛るものである筈である。「閣議決定」で、憲法9条の法の精神を骨抜きにする権力を、聖書の思想は許さない。


マルコ福音書 2章23-28節
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのかと言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」