マタイによる福音書 20章1-16節 ”「ぶどう園の労働者」のたとえ”
並行箇所 なし(マタイ独自資料)
2014.6.11、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第77回、「新約聖書 イエスの生涯から」⑦
(前明治学院教会牧師、健作さん 80歳)
1.ある女子大でこのイエスの「葡萄園の労働者」のお話を読んで、どう思うかと尋ねた。
「こんなのおかしいと思います。だけど宗教の話だったら納得します」という答えが返ってきた。ここの主人は慈悲深い神「絶対の恵み」「愛の可能性」「劣者の尊重」を告げる宗教的信仰へ導く譬えのお話であるという。
キリスト教は、大方この線で理解をしてきた。パウロの「信仰義認論」を観念的に理解する線である。しかし、そうではないことを「イエスの譬え話」をテーマに扱ったことがある。
▶️ ぶどう園の労働者のたとえ 2007/8/29 聖書の集い(第1回)
2.この譬えは3幕構成になっている。
(1節a・16節は編集者マタイの付加)
① 1節b-7節:労働者の募集と雇用(状況)
② 8-10節:賃金の支払い(危機、支払いを巡る対話、論争と挑発。法は順守されつつ、不可解な攪乱、反日常の侵入、もう一つの存在位相の認知への促し、人間社会はかく在るべきという認識)
③ 11-15節:結びの対話(解決。農場主の法的には彼の権限内にある自己財産の処分権、贈り物への意思)。1デナリは当時の一日の賃金。労働と生存の基本を現実的また象徴的に語っている。
3.譬えの促す二つの方向
一方では、現実の労働で正規に雇われ契約を結ぶ者がいる。他方、雇われない者がいるという不合理を取り上げ、現実がかくあれば、と不合理の是正に取り組む促しの方向へと話が伸びる(現代の社会保障制度の考え方の原形。自由競争主義ではない考え方)。
ユダヤ教には民族の中で助け合いの精神があった(落ち穂拾いの権利)など。しかし、マタイ福音書は、この譬えを
後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。(マタイ 20:16)
の句をつけ弟子たちのイエスへの無理解への戒めに位置付けた。
元来イエスが社会的・経済的文脈で語った「お話」を、違う文脈にいれて「教訓」にしてしまった。
この線だと「神の前の平等」(1デナリを神の前に失われてはならない固有の「命」[人格、人権])」と受け取り、行き着くところは、内面的信仰の安心に安住させてしまう。
しかし他方で、当時の現実社会への厳しい批判にまで突き抜けさせていると理解すると、この「譬え」は当時の社会・経済構造の矛盾を批判する鋭さを持つ。
しかし、譬えが「慈悲深い主人(案外、このような雇い主がいて、その話が民衆の心には在ったのかもしれない)」を中心にしているので、譬えとしての「脆さ」を持つ。
「イエスが労働者の賃金についてこのように語ることができたのは、そのようにならねばならぬ、という当然の感覚を身につけていたからだ。」(田川健三『イエスという男』P.241)
という指摘は、この譬えを、イエスの経済構造へのまなざしを示していることへと気付かせる。
4.イエスはイスラエル宗教の伝統では、思想的に預言者の系譜に属していた。いわゆる旧約聖書では
正義を洪水のように
恵みの業を大河のように
尽きる事なく流れさせよ。
(アモス書 5:24、新共同訳)
といった預言者アモス(イザヤ、エレミヤ)の系譜である。
しかし単なる経済的解放者ではなく、
貧しい人々は、幸いである。(ルカによる福音書 6:20、新共同訳)
(貧しい人々が幸いでなくて本当に幸いなどというものがあるのか、という逆説)
という人間の解放を現実として語った。
イエスを宗教観念の領域だけで理解してはならないと思う。
