2014年1月5日、降誕節第2主日、
明治学院教会(325)新年礼拝
牧会祈祷
(明治学院教会牧師、牧師退任3ヶ月前、健作さん80歳)
ヨブ記 19章23節-29節、ローマの信徒への手紙 13章11節-14節
1.人生には強気の時と弱気の時があります。旧約聖書のヨブもこの両極を生きた人です。
息子の「いじめの問題」に強い憤りをもって学校に迫る強い父親が、親としての自分の反省では自分の弱さを深い悩みに滲ませていた場面が今でも心に残っています。
ヨブ記では13章に強気のヨブが描かれます。ヨブの苦難を共有しないまま、偉そうにヨブを責める友人たちの冷たい言説に対して、ヨブは彼らを「無用な医師だ」と強く抗議します。
「ドグマティスト(教義主義者)・観念論者」に対して闘う、強いヨブです。しかし19章では「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ(病と苦難のこと)」(21節)と人生に滅入る弱気のヨブが描かれています。
「言葉を書き留めてくれ」と述べた後、自分を「贖う者が生きておられる」と弱さのどん底から神を求めます。
2.内村鑑三は「世界最大の書は何か、それは聖書である。聖書中最大のものは何か。それはヨブ記である」と言って、この19章にヨブ記の絶頂を見ています。
明治24(1891)年、31歳の時、第一高等学校で「教育勅語」に敬礼しなかったので職を追われました。
時を重ねて自分の肺炎を看病してくれた愛妻・加寿子が肺炎に感染して死去します。
強度の精神衰弱・不眠症に陥り、また、親戚・縁者からの厳しい非難にさらされます。こんな中でヨブ記の講義をしたのです。彼は、ヨブ記の神に、強気の人間に対する「義の神・審きの神」を見ますが、他方で弱気の中で「仲裁者・証人・保障者・贖う者(ゴーエール)」なる神を見ます。
さらには、これを新約のローマ書の「贖罪者キリスト・憐れみの神」と結びつけます。内村は弱さの中でヨブ記を読んだので、彼の講義はヨブ記19章が中心になりました。
3.しかし、強い傲慢な自分を打たれる神に向かい合いながらも、そこでの「向かい合い」を大事にする読み方をするのは、旧約学者・浅野順一氏です。
彼は13章15節をヨブ記の中心課題としています。
そうだ、神はわたしを殺すかもしれない。
だが、ただ私は待っておられない。
わたしの道を神の前に申し立てよう。
(ヨブ記 13章15節、新共同訳)
と、神に真向かう実存的な生き方が大事だと述べています。
強い時には、自分を打つ神・審きの神・怒りの神に出会い、弱い時には、自分の苦しみと共に立って贖う者に出会うという、この両面を持つのがヨブ記の信仰です。
4.強気の時にも弱気の時にも、常に神の前に自分を、神との関わりで見つめ直すこと、あるいは神に祈る、聖書の言葉の一つ一つに出会うこと、が大事なのではないでしょうか。
自己絶対化を起こさない関わりが自分には与えられていることを信じることです。
自分を諭してくれるものがいるならば、それは友人であろうと、子どもであろうと、教師であろうと、配偶者であろうと、大切にすべきです。
自分に向き合う者のその背後には「神がいまし給う」事を忘れてはなりません。
強気の時も弱気の時も、自己相対化の視座を持ち続けることを、信仰生活の中にプログラム化しているのはカトリック教会の「告解」です(洗礼を受けた後に犯した罪を、司祭を通じて神に言い表す行為。赦しの秘跡の中心行為。元「悔悛の秘跡」と呼んだ。[広辞苑])。
プロテスタントは信仰者個人の主体性を大切にするので「悔悛」を制度化してはいません。神との関係に立ち戻る柔軟性、「改悛」を自己の生き方に絶えず取りもどす事は、各自の責任に委ねられています。「夜は更け、日は近づいている」(ローマ 13:11)という「時(カイロス)」の自覚を促されます。
5.賛美の生活
ヘンデルは「メサイア」の第三部「復活」(第一部「預言・降誕」、第二部「受難・救済」)への賛歌のアリアの冒頭をヨブ記の言葉で始めます。
私は知っている
私を贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも
この身をもって
わたしは神を仰ぎ見るであろう。
(ヨブ記 19:25-26)
弱さから仰ぐ神への賛美です。
今年も我々を取り巻く状況は厳しく、弱さに打ちひしがれる思いをすることがあるでしょう。しかし、神を賛美する生活を確固として持続させてゆきたいと思います。
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