闇の中の光

光は暗闇の中で輝いている

ヨハネ福音書 5:1

イザヤ書 9章1節、2節
ヨハネ福音書 1章1節-5節

1、「初めに、神は天地を創造された…『光あれ』」(創世記1:1-3)は強烈な言葉である。新島襄はこの言葉で人生を変えた。彼は、初め西洋文明へのあこがれを「軍艦」に感じ、軍事をもって国を起こす志を抱いて、危険な海外脱出を実行した。だが、洋上で、聖書に出会い、西洋文明の根幹を、キリスト教を含めて捉えなおし、やがて(キリスト教)教育をもって、人を育て国を起こす生き方へと転向して行った。哲学者鶴見俊輔は、これを「陸の思想」(固定しきっている)から「洋上の思想」(揺れ動く)への転生と表現した。私の言葉で言えば、人間を「縦関係の権威的支配構造」から「横関係の愛の共生構造」として築き直す人生を選び取ったと言いたい。「教育」といっても、新島は「国家の教育」に携わることを断り、辛酸をなめて「私学・教会を併存するキリスト教主義・同志社」の設立を志し、道半ば46歳11ヶ月で生涯を終えた。

2、聖書の思想を非常に単純化して、私なりに受け取るならば、前述の「権威的支配構造」を「闇」という。これに対して「愛の共生構造」を「光」という。

創世記は「光あれ」を神の創造の意志として捉えている。
イザヤ書9章1節は、アッシリヤをはじめとする、国家権力の興亡盛衰の闇に翻弄される民衆に「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」と、確固たる光としての神の意志を示した。イスラエルの歴史は、いやどの時代も、国家の支配が渦巻く歴史は闇に包まれている。それに無自覚であることにおいて闇はまた自分でもある。
しかし、「光が輝いている」(イザヤ9:1)という事実に私たちは招かれているのだ。

3、ヨハネ福音書は、イエスの誕生をマタイやルカのように美しい物語としては描かなかった。彼特有の哲学で表現した。神の意志としての「言」(ロゴス)、「言の内にある命」「命は人間を照らす光」「光は暗闇の中に輝いている」。どんなに闇であっても、「光」は神の意志として貫かれている、とは聖書の一貫した主張である。我々に「生きていて良いのだ」と語りかける生の根源的在りようを示している。しかし、「暗闇は光を理解しなかった」のが世界の現実である。

ヨハネはその先「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」(14節)とイエスの生涯と、十字架に極まる苦難と死を一気に語る。(今日はここには触れない。今日のメッセージは「闇に輝く光」 であるから)

最近の、政治・経済の状況(立憲主義憲法の民主主義の息の根がしめ上げられて、軍備増強が目に余り、貧富格差を益々広げる経済政策、及びもつかない犯罪の拡散)など、闇は深い。しかし「光は輝いている」。飼い葉桶の輝きを心に宿したい。「光の君なる 主は来ませり」(讃美歌21 261番「もろびとこぞりて」 3節)と高らかに歌いたい。

4 、樋口健二(1937生)というフォトジャーナリストがいる。信州の貧しい農家で育ち、貧困克服のため冬は東京で過酷な出稼ぎを経験する。世界の報道写真家ロパート・キャパ展に出会い、写真家を志し、写真学校で学ぶ。世の中は変わらないゆえに、自分の境遇の仲間たちの代弁をするしかないと40年前から公害、原発労働者を撮り続けた。しかし、その苛酷な労働者たちが自分を語ろうとしない。インタビューで

“「日本人はなかなか社会を変えられない」。 一人で戦ってきた樋口さんの苦言は重い” 

(東京新聞 2013.12.15)

と語る。困窮者をさえ沈黙させる「闇の力」は深い。だからこそ闇を自分の内々として捉えながらも、樋口さんは闇と闘う。彼も「光は暗闇の中で輝いている」ことを信じて生きている人に違いない。励みだ。(著書『これが原発だ – カメラがとらえた被爆者』岩波ジュニア新書 1991年他)。

於単立明治学院教会