複眼の教会(2013 礼拝説教・東京)

2013.6.16、日本基督教団 大泉教会(東京都練馬区)

(明治学院教会牧師、79歳)

マタイ 19章23節−30節及び20章16節

このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイ 20:16 新共同訳)

「3・11」(2011年3月11日、東日本大震災)以後、私の心に刻まれている忘れ難い言葉があります。

 それは、今日の週報のエッセイにも記させて戴いた、福島の富塚悠吏(ゆうり)君の言葉です。

「国の偉い人たちに聞きたい。大切なものは僕たちこどもの生命ですか、それともお金ですか」

「脱原発世界会議 2012」の開会式の著名人に交じっての挨拶の言葉でした。そこに居合わせた私は、この国が今迫られている「命を守る」価値感への転換に本当に責任を負わねばならないという思いを新たにしました。

 その思いとは、今世界を支配している、「まず、お金」という新自由主義経済を推し進める巨大な権力、それは「政治・官・財界・学会・報道」が一体になった権力に対して「価値感の闘い」を鮮明にする事でした。

 キリスト者にとっては聖書の価値感の根本に立ち返って現実を見るという事です。

 旧約聖書が「バアルに従うのか、ヤハウェに従うのか」と迫っている事柄であり、イエスが「神と富とに兼ね仕える事はできない」と言っている事柄にもう一度心を傾けることでした。 

 今日、譬話そのものは朗読しませんでしたが、引用させて戴いた、マタイ20章の「ぶどう園の労働者」のイエスの譬話に則していえば、

「お金」とは朝から働いた人がまず優先するという効率主義に釘を刺すことであり、「いのち」とは夕方まで仕事がなくて佇んで人生の悲哀をなめた者の悲しみに繋がり、みな同じように扱われたという「神の意思」を大事にするということです。

「いのちの問題」は信仰の問題というより人間の感性の問題です。

「いのち」の問題は、我々信仰者も、基本的に人間とは何かという感性に目覚めた多くの方達に連帯して戦う問題であります。

 マタイ20章の「ぶどう園の労働者」の話をある女子大でした時、ある学生は「朝から働いた人と、夕方だけ働いた人の報酬が一緒だなんておかしいと思います」と言いましたが、ある学生は、社会を成り立たせる原理としては、実際に健康保険制度などを考えれば、この聖書の思想は当たり前のことを言っていると申しました。

 私の友人は心臓の手術をしてなお生きているわけですが、800万円ぐらいかかった。保険制度が無ければ生きてはいないだろう、といっていました。この譬の夕暮れの労働者の気持ちを思ったそうです。健康面では、朝から働いて元気な者には申し訳ないが、みんな一緒に扱うという思想は、人間が生きてゆく上で積み重ねてきた、大事な感覚であると感じたといっていました。

 これはなくてはならない「いのちへの感覚」として、大事にされなければなリません。

 鎌倉の住人であった、なだいなださんが亡くなられました。精神科医であり、作家でした。同じく鎌倉の住人の内橋克人さんが追悼文を朝日新聞に書いていました。専門家の知識ではなく、人々の磨き上げられた「常識」こそが人間を解放する、そんな信念をもった人でした。コモンセンスの大事なことを語った。なださんの『神、この人間的なるもの』(岩波新書)これはカトリック信者の友人との対話集で、表題のように、神を人間的なるもので語っている。アルコール依存症は専門家の知識では癒せないが「患者に学ぶ」ことで、癒される。

 鎌倉では、井上ひさし、なだいなだ、内橋克人さんが立ち上がり「9条の会」を立ち上げました。憲法は権力を縛る立憲主義、戦争を許さない平和主義、この当たり前のことが大事だ、と。天声人語ではなだいなださんの『権威と権力』を取り上げ「絶望的状況でも希望を失わない人間」として自身をなぞらえておられたことを評価しています。彼のいう「常識」は「いのち」の問題であろうと思います。

 教会は、この「常識」に目を開いていなくてはいけないと思います。

 人間の感覚において、多くの人々に繋がる眼を持ってゆきたい。多くの人に繋がる眼を。

 脱原発、憲法を実現する、沖縄の苦難、福島の苦難に連帯する、在日外国人の差別、格差社会の底辺にあえぐ人々の悲しみに繋がる、障害者差別、部落差別など、まだ個別問題はたくさんあります。これを見据えてゆくことが大事だと思います。

 勿論一人が何でも関わることはできませんから、何か自分の課題を見つけたら、それを通して、繋がってゆくまなざしが大切だということです。

 20章の「このように、後の者が先になり……」(夕暮れに佇んでいた人が先になるのは当然の理なのです)、マタイは「このように」と訴えています。

このように」はなだいなださんのいう「コモンセンス」の問題です。

 この「コモンセンス」を見張る眼が必要です。

 複眼の教会の一つの姿です。

 さて、マタイ19章は信仰の眼のお話です。

「金持ちが天の国に入るのは難しいということです」

「持ち物を売り払えなかった金持ち」の姿に、ペトロが「なにもかも捨ててあなたに従ってきた」と自負を述べます。するとイエスは、捨てたことを評価しながらも、なお「しかし、先にいる多くの者は後になり……」とペトロの自負を戒めます。

 この自負を戒めることは信仰の眼に依らないと出来ない。

 私自身の自戒、反省にまつわるエピソードがあります。私が五十余年前、伝道・牧会した教会で受洗した青年の方がありました。後の生涯を惜しみ無く教会奉仕に捧げられました。大企業で習練された手腕をもって、教会幼稚園の理事長をつとめ、遺憾なくこの世の知恵をもって建築などに手腕を発揮されました。その人がその教会にどんなに貢献したか、は皆が知る所でした。その方の教会に先般招かれました。礼拝では、実に感動的な祈りを捧げられました。夜、その方は健康を害しているので早々に帰宅されました。残る方々と夕食をとっている時、実はその方の存在が教会にとって困った者であることを縷々と聞かされました。実情はその方はいつの間にか「小ペトロ(教会ボス)」になってしまって、若い牧師や若い教会員が困っていたのです。その後ろ盾になっていた牧師が実は洗礼を授けた私だと皆さんは思ってきたのです。さぞ憎まれ役を買っていたのだと思います。「教会」によくある話です。

 若い時に先輩の牧師から「君には分からないだろう」と言われたことがある。今考えると「教会ボス」にどのように「信仰的転換」を促すかという問題であったと思う。招かれた教会でも「教会ボス」をバックアップしていたことに気が付いていなかったわけではありませんが、責任を改めて感じました。

 暗にその責任と重荷を共にする役目へのお招きだったのかと思いましたが、実はそうではなかったのです。末期癌のその方への「慰めと励まし」をする役目でした。教会は「愛に根差して真理を語る」とエフェソ4章(15節)にありますが、愛にみちた、教会という者の存在を感じました。

 マタイ19章の「しかし、先の者は後になる」という言葉を心に刻み付けました。この「しかし」という、翻(ひるが)りは信仰の問題です。

 私も自分に言い聞かせるように、実は最近「謙遜」「自分を捨てる」という説教を続けました。当然、自戒を込めてです。

 外に向けて活動すればする分、内側を見る眼差しが鋭くなくてはいけません。内省の眼です。「悔い改め」という部分に属するかもしれません。複眼のもう一方の眼は内省の眼です。

 ペトロは何度も転びました。しかし「転ぶぺトロ」が主のまなざしに許されて存在するのが教会というものです。

讃美歌243番(讃美歌21−197番2節)
ああ主のひとみ、まなざしよ
三たびわが主を、いなみたる
よわきペトロを かえりみて
ゆるすはたれぞ、主ならずや。

 マタイは19章26節に

「それは人間にできることではないが、神には何でもできる」

 という、以下のような伝統的聖書の信仰の言葉を語っています。

 創世記18章14節「主に不可能なことがあろうか」(サラに必ず男の子が生まれる) 

 ヨブ記 42章2節「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。」最後にヨブが悔い改める所です。

 エレミヤ書32章17節「あなたの御力の及ばない事は何一つありません」。エレミヤの祈り、アナトトの土地を買ったとき。

 マルコ10章27節(ルカ1章37節)「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ(マルコ)」。「神に出来ないことは何一つない(ルカ)」(ルカではエリザベツが身ごもる)

 われわれの不信仰にもかかわらず、なお「神には出来ないことはない」という「悔い改め」を導く神の元に招かれていることを確信し、大胆に、困難な状況を歩んでゆきたい。

 祈ります。

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