いなくなった羊を見つけましたから – 数の論理への挑戦

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第59回「新約聖書 イエスのたとえ話」②
ルカ福音書 15章1節-7節

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

新約聖書 ルカ福音書 15章1節-7節

1、「個」が大事。W杯出場を劇的PK弾で決めた(6月4日)本田圭佑選手のブラジル大会出場への決意を語った言葉だ。チームで戦うサッカーとても「個」は一番基本なのであろう。「個」が大事ということを語っている聖書の箇所を一箇所挙げよ、という試験問題がでたとすれば、誤りなく聖書を多少知っている者はルカ15章4節を挙げるであろう。

2 、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失うとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないであろうか」。これは恐らくイエスの思想の原点の「譬(たとえ)話」であろう。現代の新約聖書学研究者もその事を指摘する。ルカが原物語に近いがマタイ
(18:12-14)はルカの「野原」を「山(エルサレム神殿を意味する、安全圏)に、「見失った」を「迷い出た」(中心は99にある思想)に変えて、原譬の過激さを骨抜きにした。「迷いでた」を問題(悪)の存在としてしまった。
イエスは全く逆を考える。「個」を「見失った」「全体(99)」とは何か。もはや意味を持たないと。それが「野原(原野)」に残されて不安にさらされる事の意味だと指摘する。例を挙げよう。「不登校児」が問題なのか。そうではない。一人の子どもが存在をかけて、学校、教育体制、社会の問題を、魂の叫びとして訴えている。一人の子を、悲痛な問題提起として捉えられないのか。むしろ、一人の痛み悲しみに、99で象徴される全体が共感しない鈍さこそが問題ではないか。

3 、このイエスの警話は、当時語られた状況が、付加されている。徴税人、罪人(ユダヤ社会で律法を守れなかった人々)がイエスに近寄ってきたことは、パリサイ派や律法学者の激怒を誘った。その彼らへの挑戦として語られたのがこの譬である。棘(とげ)をもった話である。パリサイ派や律法学者にとっては、律法体制から切り捨てられてゆく人はどうでもよかった。体制維持が問題であった。マジョリティー(大多数)が安定していればよいのであった。現代と相関関係にあることに気がつかないといけない。

4、本来民主主義は、一人一人が神の前に皆同じであって、それを構成する個の一人の声を「神の声」として重んじ、討論と同意によって共同の目標を共にする「非政治的共同体」であった(『民主主義の本質』リンゼイ 長岡薫訳 1929 未来社)。それが政治に適用される場合は、常にマジョリティーはマイノリティを重んじ、制度としては多数を占める権力の横暴を戒める制度が立憲民主主義憲法の原則であった。民衆が権力を縛るのが憲法である。今、それがこの国では破壊されようとしている。

5、その意味で、ルカ15章のイエスの譬は、多数派の横暴と戦う思想的根拠である。