2013.4.28、明治学院教会(310)復活節 ⑤
(単立明治学院教会牧師、健作さん79歳)
ヨブ記 42:1-6、マタイ 19:16-30
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイによる福音書 19:26、新共同訳)
1.「捨てる」
「捨てる」は新共同訳(新約)では56回出てきます。驚くなかれ原語は21語あります。
今日のテキストには27節・29節の2回です。<”aphhieemi” アフィエミー>「解き放つ、去らせる、捨て置く」。ちなみに「自分をすて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ 8:34)は<”aparmenomai” アパルメノナイ>「否認する、自分を忘れる、無視する」という、これはかなり強い意味です。
讃美歌の「主は命を惜しまず捨て」(讃美歌21-513)「かくもわがためにさかえをすつ、われは主のためになにをすてし」(讃美歌54年版-332)は「イエスの十字架の死」を神学的に「イエス自身が身を捨てる」という意味で用いています。
聖書では「捨てること」はそれ自身が目的ではなく。新しい関係に入る、または関係を創る意味です。
『「捨てる!」技術』(辰巳渚、宝島社新書 2005)は「捨てること」は物と自己との関わり方の意識化、関係性を創ること。関わりの中で自分が活かされるのだ、と言っています。
聖書の「捨てるとは関係性の創造です。
2.「捨てる」ことをしないで:金持ちの青年
「捨てる」ことをしないで「永遠の命」を得たいという、大変虫のいい「金持ちの青年」は自己完結的、自分本位の人物です。
イエスは持ち物を売り払って、貧しい人々に施せと命じます。そうすれば天に宝を積むことになると。
他者(神と人)との関係に無知な人への呼びかけです。
マタイは、富の問題・所有の問題をずっと語っています。
「富は、天に積みなさい」(マタイ 6:19-20)
「天」というのは「開かれている関係」ということです。そして「ラクダが針の穴を通る」難しさに続きます。
3.ペトロの自負
このような流れの中で、ペトロの自負が登場します。
「なにもかも捨ててあなた(イエス)に従って参りました」(マタイ 6:27)と言います。
マタイ福音書は、ペトロを大変大切に扱っている書物です(マタイ16章の「ペトロの信仰告白」)。ペトロの発言は額面では肯定されています。「わたしに従って来たのだから……十二部族を治める」(28節)そして「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報い(豊かな関係)を受け、永遠の命を受け継ぐ」(29節)と。
4.ところが、問題は、最後に付加されている一節です。
30節の「しかし」でドンデン返しがあります。ここが、このテキストの深みです。
ペトロの自負は「先にいる多くの者が後になり」で逆転します。
この逆転の宣言は、26節の「人間にできることではないが、神は何でもできる」という神の可能性へと価値尺度の転換の促しをしています。
そこに微塵も気がついていないのがペトロの盲点です。私たち自身も例外なく「このペトロ」です。ここにテキストの問いかけがあります。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24、新共同訳)
「主は命を捨て」という、関係を想起する中で、開かれた関係へと息づくことが許されています。ここには命の関係の「逆説性・成熟性」がよく出ています。
「自分を捨てること」に熟達して、少しでもイエスに近づくことを求めて参りたいと存じます。
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