2013.2.10、明治学院教会(303)降誕節 ⑦
(明治学院教会牧師、健作さん79歳)
創世記 19:15-26、フィリピ 3:12-14
”命がけで逃れよ。後ろを振り返っては行けない。低地のどこにもとどまるな。”(創世記 19:17、新共同訳)
1.”後ろを振り向くな”:福音書
聖書には「後ろを振り向くな」という戒めが幾つかある。
”鋤に手をかけてから後を顧みる者は、神の国にふさわしくない”(ルカ 9:62)
というイエスの言葉をまず思い起こす。「イエスに従う」と言ったのに、親の葬式を済ませてから、家族に暇乞いを言ってから、と言った弟子たちに言われた言葉である。
ここでは次のイエスの言葉が同時に思い起こされる。
”何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのことはみな加えて与えられる”(マタイ 6:33)
「加えて与えられるもの(対象化・相対化できるもの、絶対化してはならぬもの)」と「なくてはならぬもの(命・関係・恵み)」とは、マルタとマリヤの話(ルカ10:42)に出てくる言葉である。
”「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」”(ルカによる福音書 10:41-41、新共同訳)
聖書の価値観から言えば「お金」が「いのち」か、という問いの前では、「いのち」を凝視して、経済・体裁・しきたり・思い煩いのことなどにキョロキョロするなということであろう。「いのち」は即「神の国・神の義」である。
2.”後ろを振り向くな”:パウロ書簡
パウロはキョロキョロしない。
”後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上に召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。”(フィリピの信徒への手紙 3:13-14)
ときっぱりと言う。
重心が前にかかって走る姿勢では、後ろのものを考えている暇はない。パウロ及びその影響下の文書には、信仰の姿を「走る」ことで表現している箇所が多々ある(Ⅰコリント9:24、ガラテヤ2:2、フィリピ2:16、Ⅱテモテ4:7)。
後ろのものへの思いは神によって相対化され、過去として締め括られ、課題が前に置かれるからである。マラソンの走者のようである。
パウロにとって「神の義」は何よりも大事な「賞」であった。
3.”後ろを振り向くな”:創世記、ロトの妻
「後ろを振り返っては行けない」ということで、最も有名な物語は、創世記の「ロトの妻の物語」である。
低地のソドムとゴモラを振り返るような、人の姿に似た奇岩があることに由来する原因譚の物語だ、と研究者は解説する。
創世記の編者が「アブラハムの信仰」を語る族長物語の一環に入れたのは、財産や持ち物、そして地位や名誉などにキョロキョロするイスラエル民族の多くの人の歩みに一石を投じるためだったのではないか。
いつの時代に読んでも、絶対化してはならないものにしがみつき、託された可能性や将来を見失うことへの警鐘を感じる。
与えられている周りの人との関係の豊かさや役割に気づかない生き方への戒めを覚える。
「関係存在としての人間」を忘れていることへの戒めをこの物語は持つ。
関係には「生きた関係」と「死んだ関係」がある。
ふと過去に執着を起こし「死んだ関係」に堕ちこんだのが「ロトの妻」であった。
作家の森禮子さんが『愛のありか/ふりかえるロトの妻』(『聖書にみるドラマ』所収、 婦人之友社編集部 2012、1980年前後の「婦人の友」誌掲載記事)という短編で、ロトの妻の家庭的な情の深さ、人間的暖かさを見ている。だが、それが築いてきた”家”への愛着に思わず振り返ってしまった、という。そして
「瀬戸際に立ったとき、他の一切のものをすてて命を救う決断が必要である。この当然のことが、意外に人間にはでき難いものである」
と述べている。
人生の要所、要所で、信仰の決断の人でありたい。
決断に弱い自分であっても、そのように導かれるようにと、日頃の祈りを重ねたい。
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