天は神の栄光を物語り – 自然を破壊してはいけない

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第52回「旧約聖書 詩編の言葉」④
詩編 19編 1節-7節

1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
2 天は神の栄光を物語り
 大空は御手の業を示す。
3 昼は昼に語り伝え
 夜は夜に知識を送る。
4 話すことも、語ることもなく
 声は聞こえなくても
5 その響きは全地に
 その言葉は世界の果てに向かう。
 そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
6 太陽は、花婿が天蓋から出るように
 勇士が喜び勇んで道を走るように
7 天の果てを出で立ち
 天の果てを目指して行く。
 その熱から隠れうるものはない。

旧約聖書 詩編 19編

1 、新約聖書の福音書にあるイエスの「山上の説教」には、「野の花がどのように育つのか注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」 (マタイ6:28-29)という有名な言葉があります。それが語られている文脈は、人間の思い煩いを戒め、神の絶対的恵みに委ねて生きる事の促しを与えている箇所です。その少し前の個所では「あなた方の天の父は・・・悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる・・・」 (マタイ5:45) と語り、神の恵みの普遍性を語っています。花、雨、日光が神の支配(国)の比喩になっています。これは、自然そのものが、神の支配(意のまま)のうちにあるということではなくて、自然が神の恵みの比喩になっているということです。確か「自然は信仰の教師である」と言ったのはデンマークの哲学者キルケゴールだったと聞いています。自然に対する感性は、聖書を読むときの大事な受け皿になっているという事を申し上げたいのです。

2 、聖書が伝えようとしている「彼方の真理」「人間の内側からは出てこない真理」 「神の真理」「福音」を受け止める受け皿を、今まで詩編を通して考えてきました。たとえば生活の経験そのもの、「羊飼い」(23編) 、文学や芸術の世界の象徴、「山々を仰ぐ」人生の佇まい(121編)、歴史の罪責の経験(130編)などです。いずれにせよ、人間の経験の世界に、受け皿そのものが秘められている事を信じて読むことが大事だと思います。そのような保留をつけないで、聖書を対象的に、主体に対する客体として、あるいは主体の変革とは関係のない知識として学ぶというアプローチでは、聖書は、本当の姿を現わさないということです。もっと言葉を代えて言えば、聖書は「出会い」の書物だということです。「出会い」は、こちらが相手によって変化させられる、相手も変わるという関係の中で起こります。ですから、東京で読む聖書と、沖縄で読む聖書は違うのです。若い時に読む聖書と年老いて読む聖書とは、別な出会いを持っています。日本ではトップレベルの聖書学者 荒井献さんはその著『イエスとその時代』(岩波新書 1974) のあとがきで、韓国のキリスト者学生諸氏から私のもとに送られてきた手紙は(私の専門のレベルを極めた研究の結果)と同じことを的確に言い当てている。それは彼らがイエスの振る舞いを現在において追体験しているからである、と言っています。問題は、知識として、教養として、人生の参考資料として聖書を学ぶという読み方は、結局は、聖書との出会いをもたらすことはないのではないか、という事を、聖書の学びの「方法」としてわきまえておくことが大切である、という事を詩編を手がかりに探っておきたいという願いがあります。

3 、さて、詩編19編ですが。今日は前半だけ読みました。前半は、「天、大空」 という自然が、神の栄光、神の御手の業を示している、という「神は天地の創造者」という「創造信仰」を表明しています。「初めに、神は天地を創造された」(創世記 1:1)は聖書の冒頭の言葉ですが、そこに示された信仰が詩編でも示されています。後半は人間の罪を赦す神、「贖罪論」「救済論」の神を語っています。日本の文化の中で創造論を受けとめることは「自然は神ではない」事の明確さを知ることでしょうか。

4 、「その響きは全地に」はなかなか含蓄のある一節です。「言葉」に先だって「響き」が歌われています。自然に向かいあう時、自然をことばで表現する以前の感性の問題だと思います。現代人は余りにも理性(ロゴス)で纏め、整理する思考にゆがめられているように思えます。旧約の世界では、知性や理性より感情で神を感じることに生きていたのでしょうか。私には、この詩は私の少年期の経験と結びついて、一つの信仰の原体験になっている、忘れる事のできない詩編です。以来レイチェル・カーソンではありませんが、自然を有りのままに大切にしなければいけないという思いを持っています。