病と闘う – 恵みの働く場

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第48回「新約聖書コリントの手紙とパウロ」⑨
コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章7節-10節

1 、「一つのとげ」と表現されているようにパウロには持病がありました。パウロはそれを「サタンから送られた使い」(7)とマイナス評価をしています。それは「この使いについて離れ去らせてくださるように、わたしは三度主にお願いをした」(8)とあるとおりです。パウロの病気が何であったかを詮索したのは医師であり、神学者であったアルベルト・シュヴァイツァーです。彼は癲癇説をあげています。他に、偏頭痛、言語障害、眼病、マラリア、リウマチスとそれに合併症などが考えられて来ました。「内因性抑欝症」と考える研究者もいます。「とげ」については痛みと関係しますから全身の鈍痛とも想像できます。11章の迫害のリストから考えて肉体の後遺症を考える人もあります。この「とげ」について「サタンの使い」という表現をしています。古代では病気をサタン(悪霊)の働きと考えていたのは当然です。自分の肉体をサタンの働く場と考えていたのでしょう。それを、さらに肉体だけではなく精神的苦痛、特に、コリント教会から受けた「苦痛」を含意していたかも知れません。

2 、しかし、パウロは彼の「十字架の神学」をこの最も克服しにくい自分の問題に対しても貫きます。「弱さ」を語るパウロについては前回のプリントを参照。
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。カは弱さのなかでこそ十分に発揮されるのだ」という文言を、「主は…いわれました」と彼が内面で聴いてきた、「主(神・イエス)」 の言葉として伝えています。ここで、見逃してらないのは、主語の転換です。
次の9節、10節はそれを受けて、パウロが主語になっている。「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあって、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(10)と、ここでもパウロ特有の逆説が吐露されます。逆説は、論理になると色あせます。いつでも主体における主語の転換として意味を持ちます。

3 、大事なのは「弱い時にこそ強い」と言う言葉そのものではなくて、彼に主体の転換を迫る「神の働きかけ」ではないでしょうか。それは十字架の死に行き着くしかない姿で、神がパウロに働きかけた、その出来事の衝撃性にあります。福音書のマルコにイエスが処刑され息を引き取った時、その処刑に立ち会ったローマの百人隊長が、「本当に、この人は神の子であった」と言う場面があります(マルコ15:39)。「神の子」と吐露し、告白することの衝撃は、イエスの弟子ではなくて、死刑執行者のローマ側の兵隊であったところにマルコ福音書のメッセージがあることを多くの注解者が指摘しています。福音書の逆説です。最も神のことを学び知っているパリサイ派の律法主義者パウロが、主語の転換を絶えず遂げていることが大事なモティーフです。

パウロにとって「母の胎内にあるときから選び分かち恵みによって召し出してくださった神」 (ガラ1:15)といっている様に、「神関係は普から変わらない」 のです。しかし、ダマスコの改心の時から「神理解が変化」しました。それは、「十字架のイエスを媒介とした神理解」となったことです。パウロは十字架の出来事に立ち返ることで、自分の人生の病という細部を捉え返したことに注目をしたいと存じます。これは「イエスの死」が即「贖罪論的」 に理解されることではなく、「十字架の死」の出来事として、逆説性を持っているからです。「イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された」(ガラ3:1)は、パウロの日常のありようでもあります。

参考文献:青野太潮『「十字架の神学」の成立』 (ヨルダン社 1979)『 「十字架の神学」の展開』(新教出版社 2006)

逆説の理解を他の言葉で敷衍(ふえん)するなら、例えば「体は殺しても、魂を殺すことのできないものどもを恐れるな」(マタイ10:28)。日本の諺でも「一寸の虫にも五分の魂」などというのは逆説ではないがその響きがある言葉で、ある事柄への対処の気構えを示しています。

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