覚えられているということ(2012 礼拝説教・永眠者記念日・詩編106)

2012.11.4、明治学院教会(292)降誕前 ⑧ 永眠者記念礼拝

(単立明治学院教会牧師、健作さん79歳)

詩編 106:1-5、Ⅱペトロ 3:8-13

わたしを御心に留めてください。(詩編 106:4、新共同訳)

1.今日は永眠者記念礼拝です。

 名簿の方だけでなく、それぞれに家族や親しい者たちを覚えて礼拝を守りたいと存じます。

 私事になりますが、私の父も亡くなって20年です。最期に

「僕の生涯は感謝であった」

 という言葉を残して召されました。

 感謝で生涯を締めくくることはキリスト者としては自然なことですが、そこには長い聖書の信仰の歴史が根底にあることを感じました。

2.詩編106編

 先ほどお読みした、旧約聖書の詩編106編は、内容からいうと、イスラエル民族の神への反逆の歴史を思い起こしている部分が長いのですが、その暗い歴史を挟む前後に「ハレルヤ」と神への讃美が歌われています。

 旧約聖書学者の関根正雄氏は次のように述べています。

「旧約では歴史は第一に神の歴史であるから、讃美が枠として出てくるのは当然である。」

 神の歴史の中に自分が覚えられるというのは、旧約聖書の人々の大きな願いでした。そのために「わたしを御心に留めてください。」(4節)と祈っています。

 覚えらえているという経験は、私どもでも喜びですが、旧約聖書の人々には人生の存在意義そのものでした。

3.忘れ難い記念会

 私は「記念会」というと忘れ難い経験があります。

 もう40年ほど前です。

 当時責任を持っていた教会で、一人のご婦人から、30数年前に失ったご長女の記念会を頼まれました。

 長い長い物語を一通りお聴きしました。自分は女学校の時、封建的な家の制度で魂が窒息しそうになった時、親に隠れて密かに、街の教会で洗礼を受けた。

 結婚も養子を取らされて家を継いだ。夫はすぐれた学校の教師で有力な人であった。若い夫婦は僻地校に責任者として赴任し、そこで長女が生まれ、3歳で疾病で亡くなった。

 骨は実家のお寺に納めた。しかし、自分にとっては、その最初の子が、神の御許に召されていて、自分を神様に繋ぎ留めていることを感じ、その後の年月を生き抜き、やがて教会のある街に住むことが出来、今日に至っている。

 今では夫も自分の信仰を認めてくれて、亡き子の記念会に賛成してくれた。その子は「一粒の麦」として神と自分とを繋ぎ留めていた存在であった。記念会でそのことに感謝を捧げたい、とのことでした。

 恵みに満ちた静かな記念会でした。後日談はさらに神の働きの恵みの物語となります。

4.一粒の麦

 記念会は、私たちが亡くなった方を覚えて何かをするという行事の日と思いがちですが、そうではありません。

 亡くなられた方が生前「信仰に生きたかどうか」ではなくて、その方の生涯を通して「神が自分を覚えてくださること」を悟る日です。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書 12:24、新共同訳)

 という聖書の言葉を覚える日であり、また、亡くなった方を通して「私を御心に留めてください。」と祈る日でもあります。


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