無くてはならぬもの(2012 礼拝説教・詩編127)

2012.11.11、明治学院教会(293)降誕前 ⑦

(単立明治学院教会牧師、健作さん79歳)

詩編 127:1-5、ルカ 10:38-42

主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。(詩編127編2節、口語訳)

1.今日お読みした詩編127編は、教会堂の献堂式などによく読まれる詩編である。

 確かに教会堂の建築は人の業であるけれども、それは神が建てるという根本が失われたら虚しいものだ。

主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。(詩編127編1節、口語訳)

 ここの「家」はエルサレムの神殿を指すと昔から理解されてきた。しかし詩編の研究者の多くは「家」を建物と理解するよりも「家庭」と理解している。

 日本では旧約学者・浅野順一牧師は「家庭の幸福は、その家庭が文化的に完備せるためでもなく、生計を支うべく豊富な収入があるためでもない。……唯一のものを欠くならばその幸福は過ぎゆく影に過ぎない」(『詩篇 – 古代ヘブル人の心』浅野順一、岩波新書 1971)と述べ、詩編103編(人のはかなさを草に喩える)やルカ福音書 12:20(金持ちの安堵に対して今夜あなたの霊魂はとられるとの警告)を引用している。

 浅野牧師に育てられた者たちは、家庭についてそのような信仰の筋を持っていた。
(先般、1周年記念会を迎えた教会建築家であった拙兄も浅野牧師に育てられた)

2.

『信仰三十年 基督者列伝』(警醒社 1923 大正10)という珍しい本の寄贈をかつて受けた。明治20年代に入信あるいは伝道者になった800余名の素描が記されている。そこで二つのことを思った。

 第一は、明治期の家父長制と血縁の強い社会で、人格の独立と自主が新しい価値観・倫理観として生きられていること。

 第二は、信仰の継承ということ。

 前者は、個々人への神の招きと応答である。後者は何らかの意味で、親子・血縁による繋がりである。

 例えば、2代・3代目のクリスチャンが存在する。2代目は親の影響はあるが、しかし信仰は各自の決断によっている筈である。血縁が強くなると「檀家クリスチャン」というものになって、決断とか応答の面が弱くなる。岩村信二牧師は『血と契約』という書物で、血縁共同体は下部構造で契約(信仰)共同体は上部構造だと、その関係を社会学的に分析をしている。

 だとすると、イザという時、下部構造(血縁共同体)が顔を出して、上部構造(信仰共同体)は観念的な役割しか果たさないことになる。

 関田寛雄牧師はそれを批判して、人間の直接性(地縁・血縁・利益共同体・権力共同体)は、終末論的(最後には)止揚(破棄して更に高められる)されるべきものと捉える。この「血から契約へ」と両者の関係を「止揚(アウフヘーベン)」して生きることが、信仰生活の日々の自覚、あるいは闘いの問題である。

3.

「神は眠っている時にも(無自覚な時にも)、なくてならぬもの(契約の関係)を与えられるからである」(口語訳)とは慰め深い言葉である。

「げに彼は愛する者に眠りの間によきものを給う」(関根正雄訳)。

「契約の関係」「人格関係」広くは「他者を対等の人間として尊重する関係」は「よきもの」である。

 これは「主が家を建てる」ことの内実的意味である。

 われわれは人間の直接性(地縁・血縁・利益共同体・権力共同体)に埋没していることが多い。知らない間に、権力や暴力(武力)、地縁血縁への寄り掛かりに生きている。

 その無自覚を超えて、神は働き給う。

 だから、この罪多き者も生き、働くのだ。

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