2012.10.21、明治学院教会(291)聖霊降臨節 ㉒
(単立明治学院教会牧師、健作さん79歳)
アモス 7:1-3、マルコ 8:31-38
自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マルコによる福音書 8:34、新共同訳)
▶️ “己に死ぬ” ”一粒の麦”(おはこ ④)
1.今日の聖書テキストには、駄目なペトロが登場します(マルコ 8:33)。
イエスの受難を理解せず、政治的解放者を夢見て、イエスを「諫めた」のでしょう。
イエスはペトロを叱ります。
マルコ福音書はイエスの受難物語で、鶏の鳴く前にイエスを裏切るペトロも登場させます。でも、ペトロを「わたしについて来なさい」と弟子に招いたのはイエスです(マルコ 1:17)。
「招き」が先です。
この順序は駄目な弟子たちであっても変わらないということを、洞察しておくことが、まずこの物語の読みどころです。
2.縦軸:神関係、神の招き
「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて」(マルコ 8:34)は、弟子も群衆も区別なく改めて呼ばれています。「神の招き」は開かれています。
群衆はローマの植民地ユダヤで呻吟している者たちです。彼らが「招かれ」ます。
招きに応えて生きる者が、聖書の示す基本的人間像です。
そこに自分のアイデンティティー(自分たること、自己同一性、本来の自分、過去・現在・未来への一貫性)を見ます。
精神科医・笠原嘉氏は『不安の病理』(岩波新書 1981)の中で、精神科医の努力で精神疾患の病者を治すには限界があると言いながら、「それでも病人は元気になる。そして元気になれば私を離れてどこかへ行ってしまう」と言っています。
その人を活かす不思議な「招き」の関係の中で生きているとしか言いようがありません。これが人を活かす縦軸です。その人のアイデンティティーを基本的に支えるのは「神関係」「神の招き」なのです。
3.横軸:① 自分を捨て
イエスは「われに従え」という縦軸の「招きと応答」を自覚的に捉えるために、横軸の二つのことを命じます。
「自分を捨て」は固定化・硬直化する自分を絶えず柔軟に修正し、相対化して、自己完結に陥らないということです。
これは「応答」の一つの中身です。宗教的な言葉で言えば、「懺悔」「悔い改め」です。
人間学的に言えば、「反省」「想起」「歴史認識」とでもいう事柄です。
4.横軸:② 自分の十字架を背負って
もう一つは「自分の十字架を背負って」です。
これは状況を生きるということです。状況の捨象(ある面だけで把握する、切り捨てる)は独善的になって、最も苦しんでいる隣人を見失います。
芥川の短編小説『蜘蛛の糸』ではありませんが、自分だけ救われようとすると、自分の命を失います(マルコ 8:35)。
状況を背負うことは、「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う」(マルコ 8:35)という「逆説」を生きることです。
患者が元気になれば医師を忘れて何処かに行ってしまうというのは逆説です。精神科医は孤独であっても、患者に対して熱心に(十字架を背負って)関わるのが今日的役割だと先の笠原医師は言っています。
5.縦軸と横軸を生き切ったイエス
この縦軸と横軸を生き切った方として、聖書はイエス(キリスト)を私たちに示します。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピの信徒への手紙 2:6-8、新共同訳)
イエスに倣う生を自分の歩みとしたいと存じます。

