ゲラサ人のイエス(2012 礼拝説教・マルコ)

2012.10.14、明治学院教会(290)聖霊降臨節 ㉑

(単立明治学院教会牧師、健作さん79歳)

エレミヤ 1:4-8、マルコ 5:1-20

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(マルコによる福音書 5:19、新共同訳)

1.今日の箇所は「悪霊に取り憑かれたゲラサの人を癒す」物語です。

 キリスト教が整えられ「キリスト論」「贖罪論」「終末論」などと教義にまとめられた中では全く出てこない「民間説話」に基づく古いお話です。

 ゲラサはガリラヤ湖から60キロ内陸部、デカポリス(十都市連合:デカ”10”+ポリス”都市”)地方の一つです。

Jerash, Jordan

 物語の主人公はゲラサ人で、”レギオン”(ローマ帝国の6000人軍団長)という悪霊に取り憑かれ、凶暴になり墓場に住むことを余儀なくされた、いわば「精神を病むとみなされた人」です。(サイト記:オリジナルの表記はPDFをご覧ください)

 イエスはこの「ゲラサの人」を癒したという奇跡物語です。

「この人から出て行け」(マルコ 5:9)

 というイエスの言葉で、悪霊”レギオン”は近くの2000頭の豚に取り憑き、豚は湖に落ちて溺れ死んだ、というなんとも激しいお話です。

 人々はイエスに、その地方から出て行ってもらいたい、と言います。

 悪霊が出て行った「ゲラサの人」はイエスと一緒に行きたいと願いますが、イエスに次のように言われます。

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(マルコによる福音書 5:19、新共同訳)

 イエスの言葉に従って「ゲラサの人」はデカポリス地方にイエスの出来事を述べ伝えた(ケリュセイン)というお話です。

2.マルコの年代から考えると、初期キリスト教はかなり整った「教え」を持っていました。

 けれども、それを知っていてマルコは、敢えてこういうドロドロした説話を大事にして、伝えています。

 逆に、このお話を私たちは、現代的にあまり「非神話化」(現代的解釈)してしまわないで、このゲラサのイエス物語の持つ重みを感じ取る必要があるのではないか、と思います。

3.マタイ版(マタイ 8:28-34)とルカ版(ルカ 8:28-39)

 このマルコの物語をマタイは短くして、「ゲラサ」をもっとガリラヤ湖に近い「ガダラ」として、「悪霊に取り憑かれた人」を二人にしています(律法の証人規定の二人に基づく)。

 また「イエスによる帰還命令」を省いています。

Gadara, Jordan

  ルカ版ではマルコをほぼ踏襲しますが、悪霊の行く先に「底無しの淵」を加えたり、「デカポリス」を削除したりして、合理化を図っています。

 この物語では、ゲラサやデカポリスの固有さが大事で、それは「宣教」そのものの中身なのです。

4.我々は皆、イエスとの出会いの固有な場と時、そして物語を持っています。

 そこが大事なのです。

 概念化・抽象化・教義化は福音の事柄の整理・思考の過程では必要でしょう。

 しかし、概念が「福音」ではないのです。

 ドロドロした経験談、私にしかない物語、つまり

 主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったこと(マルコ 5:19、新共同訳)

 を自覚して、イエスとの出会いの物語を語る、そのこと、そのものが大事なのです。

5.遠藤周作の語り

「私が洗礼を受けたのは、私の意思ではなく、母の選択でした。神の愛を信じる母にとって、信仰は、この世の最高の宝でした。自分にとって最高のものを、母は私に伝えたのです。それが母として子に与えることのできるかけがえのない贈り物だったのです。私はこれからも悩み、もがき、ため息をつきながら生きてゆくでしょう。でも、私にはっきりわかっていることが一つあります。それは、母が私を結びつけた神から決して離れないだろうということです。」遠藤周作の語りです。

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