矛盾の彼方に(2012 礼拝説教・ルカ)

2012.10.7、明治学院教会(289)聖霊降臨節 ⑳

(単立明治学院教会牧師、健作さん79歳)

コヘレト 3:10-11、ルカ 16:1-13

主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。(ルカによる福音書 16:8、新共同訳)

1.ルカ福音書のみに載っている、やや不可解な「不正な管理人の譬え」は一体どのような生活層の人々によって伝承され語り伝えられたのであろうか?

 ある金持ち。たぶん大土地所有者。

 その土地管理人(使用人)が財産浪費を告げ口されたため、主人の負債者の借用書を自分の権限で書き換えさせることにより、職を失ってから彼らに迎えられるように図った、という物語である。

 1−8a節が原物語。油100パトス(2300リットル)、麦100コロス(2300リットル)とあり、小作の負債としては多い。

 商人を含めたかなりの経済活動である。

 その証書の書き換えで恩義を売って自分の身を守ろうというのだから、この世の知恵の不屈な機転と利口さでは、あっぱれなものである。

 実社会の機智が「光の子」という心の世界への比喩となるのは、「不正」(不正でない富があるのだろうかは自明の前提である)という点ではなくて「仲間への利口なやり方」の一点であると考えれば、譬えが少々奇異であっても依存はない。

 編集(9節)では、「友達を作る」ことが一層強調される。

 富は下手をすると人間の上下関係を増幅するが、たとえ「不正の富」であっても機転による恩義が「永遠の住まい」という宗教的価値(共同性)に類比される可能性を秘めているところが面白い。

 10節では「小さなもの(世俗)に忠実」なことは「大きなこと(永遠の命の問題)に忠実」なこと、という諺的知恵に繋げられている。

 更に、13節に行くと「神と富とに(兼ね)仕えることはできない」という別なイエス語録(マタイ 6:24)が引用される。

 ここにはルカの教会の当時の「富についての信仰者の態度」が幾重にも反映され編集されている。

2.ある聖書学者・T氏の解釈は参考になる。

 1節の「無駄使い」は自分のための着服ではなく、「ばらまく、散らす」意味で、金持ち・大地主の財産増強よりも、負債者・小作人の負担に気持ちが動いていた。

 負債を出さざるを得ない者たちの状況に眼を向けている、という。

 ちょっと強引だが、なるほどと思われる点はある。

「告げ口」は同僚の弱点を捕らえた、出世主義の現れであったかもしれない。

 この管理人は、身近な小作人や商人が自分を仲間にしてくれるドン底の人情を知っていた。だから、イエスの時代の抑圧された貧しい者たちの間では「不正と言われようと貧者の味方だった、こんな管理人もいたのですよ」と物語が伝承され語り伝えられた。

 昔話「猿蟹合戦」(木下順二『かにむかし』)が、猿に象徴される強者ではなく、蟹に味方する弱者によって語り伝えられたのに似ている。表面の立場がどうであれ、金持ちの側に心を傾けるのか、貧しい者の側に心を傾けるのか、世の矛盾に身を置きながらも、矛盾の彼方には弱者・貧者の味方イエスがいまし給うことを暗示している物語だから、語り伝えられたのではないか。

 イエスとは誰かを暗示する譬えである。

 山本周五郎の作品に『季節のない街』という都会の人情を描いた短編集がある。

 その中の作品「たんばさん」は、彫り物師の老人であるが、みんなが頼りにしている。ヤソの斎田先生さえ密かに知恵を借りるぐらいであった。物語のテーマは、彼の「存在」が長屋の救いだ、という点にある。

 矛盾多き世の中、そして人生だが、その彼方にいますイエスに引きつけられて生きたい。

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