2012.9.2、明治学院教会(285)聖霊降臨節 ⑮
(単立明治学院教会牧師、健作さん79歳)
アモス 7:1-9、ローマ 8:26-30
”ヤコブは小さいものです”
ヤコブどうして立つことができるでしょう 彼は小さいものです。(アモス書 7:2、7:5、新共同訳)
1.
アモスの出身地テコア”Tekoa”は、エルサレムの南20キロ、ベツレヘムの南8キロの町。海抜850メートルで東にユダの荒地と死海を見下ろす地。
ここで彼は羊を飼い、イチジク桑(貧しい者たちの食糧)を栽培した。
彼自身は当時の最下層小作農民というより自営農(中産階級)であった。
エルサレムの王、貴族、祭司ら富裕層の体制を拠り所とした律法の宗教とは別な、素朴な信仰によって生活をしていた。7章初めには、アモスが見た3つの幻が記されている。これはアモスが預言者としての召命を受ける以前の神からの幻である、とされる。
2−1.第一の幻
第一は「イナゴ」の幻である(7:1-3)。
旱魃があれば、イナゴは作物に襲いかかる。「一番草」は王の軍馬の食料として供出させられた。「二番草」は春の雨の時に生え、これは農民の家畜が夏を越すための飼料である。イナゴにすべてを食い尽くされては、農民は飢える以外にない。
「ヤコブは小さいものです」と神に執りなしを求めて、聞き入れられた。
「ヤコブ」は元来はイサクの子の名(アブラハム・イサク・ヤコブ、創世記 32:23)。兄エサウとの和解にあたり、ベヌエルで神の使いとの格闘(和解を意味する)に勝って、名をイスラエルと変えられる。そこから神の祝福としての”イスラエル”が用いられるが、後々これは国家の名称となり、権力の象徴となる。
アモスはあえてその「ヤコブ」を用いて、神の審判には赦しを乞う以外にない、貧しい最下層の農民を覚えて「執り成し」をする。アモスは強いイスラエルの系譜ではなく、ヤコブの系譜を自覚していた。
2−2.第二の幻
第二は「火(日照り)」の幻(7:4-6)。
地の淵を涸らしてしまう厳しい日照りである。夏の出来事。地下水源の枯渇の結果、作物が枯死する。
アモスは端的に「やめてください」と嘆願する。神の憐み以外に立つ場のない農民の魂の在りよう「小さいもの」が受け入れられて「執り成し」は聞き入れられた。
2−3.第三の幻
第三の幻は「下げ振り(積み上げた石垣に段差がないか測量する道具)」(7:7-9)。
神が城壁の上に立って「下げ振り」を持って立っている姿である。城壁は正しく積み上げなければ崩壊してしまう。「下げ振り」で試して傾いていればやり直す以外にない。
イスラエルの罪(3-6章)は、もはや「神の民イスラエル」としての実質を喪失させていた。神の審判は必然であった。アモスはもう「執り成し」をしなかった。
3.
彼は預言者としての召命を受ける前に、生活者として、既に神との人格的出会いを経験していた。
その基礎が預言者活動に決定的意味を持っていた。
「この出会い」は、神が圧倒的な威力を持って、この人物を活かし、不可抗的に捕らえ、彼が無条件に神の命令に従う召命を与えられた経験であった。
彼は、神に対してのみ義務を負って、立つ、存在となった。
神こそが彼の思考の原点である。神中心(人間の相対化)が彼をして敢えてイスラエル(国家の絶対化)に対立させた。
アモスの審判思想は、根源的・究極的に神の本質を表している。今まで自明とされた「祭儀」「選民思想」とも対決した。
4.
しかし、神の審判の前に「小さい存在ヤコブ」(貧しい、無力な民衆を意識している)に自らの身を重ねて「執り成し」をした預言者であった。
「執り成し」とは何か?
「神との人格的出会い」(A. ヴァイザー/Artur Weiser:ATD旧約聖書註解監修者)だという。他者を思って神に祈る在りようだとも言える。「真剣な執り成し」とは神に向かって魂を注ぎ出した出会いであろう。
meigaku_iwai_285