世に打ち勝つ(2012 礼拝説教・ヨハネの手紙一 ⑪)

2012.8.12、明治学院教会(283)聖霊降臨節 ⑫

(単立明治学院教会牧師、健作さん79歳)

コヘレト 12:1-2、ヨハネの手紙一 5:1-12

1.「世に打ち勝つ」

 これはヨハネ文書独特の言葉です。でも「世に打ち勝つ」などとそんなに簡単に言って良いのでしょうか?

 「世」は闇が支配しているのです。そんなに打ち勝てるようなものではありません。

 8月1日、東京新聞の第一面に、マイクを握る山本昭彦さん(水俣病不知火患者会・関東支部)の苦渋に打ちひしがれた顔写真が載せられていました。

 政府はこの日をもって、特措法救済を締め切りました。確認から56年。まだ申し出られない患者がいるのです。

「切り捨て」を考えると「世」の力の前に打ちのめされている表情です。この類の「世」の力は、核・沖縄・貧困・虐待・自殺など日常嫌というほど見せつけられています。

2.ヨハネはどういう意味で「世に勝つ」と言っているのでしょうか?

 それには次の言葉がヒントになります。

「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。」(ヨハネの手紙一 5:6、新共同訳)

 ここには、イエスの洗礼(水)だけではなく十字架の苦難と死(血)の強調があります。

 ヨハネの論的グノーシス化された「偽教師」たちの救済観は「水」を強調します。地上のイエスは洗礼の時に天なるキリストが結びつき、受難の前にキリストは離れた、そのキリストへの認識が救いの根幹をなすという主張です。十字架の死に重きを置かないのです。

 その救済観は知識(覚知)の観念体系です。完結性をもっています。知識に陶酔している人は「独り」で「救われる」のです。結局「水」は自己完結性を象徴しています。

 しかし「血」は神が他者と共にある在り方を示しています。十字架の死は、神が自らの自己完結を破って(フィリピ 2:6-8)、他者と共にあり続けるところに救済を示す出来事でした。

「世」のすべての出来事の動機付けをヨハネはこの自己完結に見ます。

 イエスの十字架の苦難と死は、他者と苦難を共にし、自己の死を通して、逆説的に共に生きる道(愛)を打ち立てた出来事でした。

 ここに「世」に打ち勝つ根拠を見ます。

 だから「イエスが神の子である」(ヨハネの手紙一 5:5)ことへの「信」が大事なのです。

 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。(ヨハネの手紙一 5:5、新共同訳)

「キリストへの覚知が救済である」との主張とは歴然と違うのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書 16:33、新共同訳)

 苦難には、勇気をもって対処していくのが、イエスに従う道です。

「世」とのせめぎ合いの極みでイエスの十字架の苦難と死を想起して「世」に流されっぱなしでない生き方に逆転してゆくことが「世に打ち勝つ」ことです。

3.もう40年近く前、

 牧会の中で出会った一人の青年の生き方を思い起こします。

 彼の兄は国立大学の優秀な学生でした。しかし、突然、自死してしまいました。教育者の両親の嘆きは大きいものでした。

 その頃は、日本の高度成長期で競争社会でした。皆エリートを目指して大学に行きました。弟も優秀な高校生でトップの大学への進学が期待されていました。しかし、兄の死を受け止めた彼は大学進学を止めて、専門学校の理学療法士の道を選び、生涯、障がい者や弱者に仕える仕事に励んでいます。

 彼は兄の死を通して「世」の在り方に流されないで自分の人生を展開しました。兄の死を虚しくしませんでした。「世に勝つ」生き方ではないでしょうか。

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