2012.8.5、明治学院教会(282)聖霊降臨節 ⑪
(単立明治学院教会牧師、健作さん79歳)
アモス 5:21-27、マタイ 5:9-12
正義を洪水のように(アモス書 5:24、新共同訳)
1.アモス書とは
アモス書は、旧約聖書の大きな分類、「律法・預言・諸書」のうちの「預言」に属する。
さらにその一群の文書「12小預言書」の一つである。
イスラエル民族は、出エジプトの後、部族間の宗教連合により治められてきた。
紀元前10世紀頃、ダビデにより統一王国・国家が作られた。
その後、王国は、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂した。
アモスは、北王国ヤラベヤム2世(BC786-746)の時代の人であった。
この頃、世界の覇者、北方のアッシリアも南のエジプトも勢力を弱めていた。
それも手伝ってか、小国北イスラエルは大いに繁栄した。
国内では富の集中化が進み、格差が拡がった。その背景には権力による不正・不義があった。
「あなたがたは、正しい者をしいたげ、まいないを取り、門(裁判)で貧しい者を退ける。それゆえ、このような時には賢い者は沈黙する。これは悪い時代だからである。」とアモスは描写する。
「お前たちは弱い者を踏み付け……お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り 町の門で貧しい者の訴えを退けている。それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。」(アモス書 5:11-13、新共同訳)
この書は、堕落した国家への批判を、苦難に喘ぐ民衆の側にある神の叫びとして告げる、旧約聖書のユニークな一書である。
2.アモスとは誰か。
アモスは牧畜を生業としていた(アモス書 7:14)。ヤハウェ信仰の契約共同体理念を忠実に営んでいる平凡な生活者であった。
彼はその生活の場で神の召命を受け、預言者活動に入った。決して職業(世襲・祭司)的な宗教家ではなかった。
3.今日の箇所
アモス書5章21-35節は、聖所で行われていた巡礼の祭儀を批判し、他方で貧しい人たちを顧りみる正義の実現を求めた「神の託宣」である。
繁栄に潤う上層部の人たちが、巡礼という祭りに解放感を求め、歌を歌う。
他方で、弱い立場の者を足蹴りにしている無自覚さに神の審きが告げられる。巡礼の祭りと正義の実現とがバラバラになっていることへの批判である。祭儀そのものの否定ではない。
4.「正義」
ヘブル語で”ミシュバート”(公道、審きとも訳されている)は法的な「判決」を含む法の正義。社会的公平・公正といった意味合い。
「恵みの業」”ツェダーカー”(正義と訳されることが多い)は英語では”ジャスティス”(Justice, Righteousness)と訳されている。
法と対比して倫理的意味合いの言葉。神の義は恵みと憐みを含むという意味の訳。法と倫理は相まって深められる。人間の秩序の外と内である。
倫理に裏打ちされない法(神の義への招き)はない。
「神の託宣」は、建前や律法の語りではない。預かり語る預言者自らの内省が含まれている。預言者の言葉が律法と異なるところだ。
5.現代の日本との類比
アモスの状況を今の日本に類比させた時、皆様はどんなことを想像するだろうか?
これは一人一人違うと思う。
私には「祭儀」は形骸化した民主主義という祭りに重なる。
政治は「祭りごと」である。選挙で、マニフェストを掲げてお祭りを済ませば、後は「正義」も「恵みの業」も何もないといった酷さを感じる。
大飯原発(福井県、関西電力)の活断層の再調査は、電力企業グループの下請けがやっている(「週刊金曜日」)。
「苛立ちの時は過ぎ去り腹立ちの日々は残りし疑惑のつもりぬ」
「君が歩の歩幅にあわせ歩みきぬ小出助教の無視の種蒔き」
友人の近詠、50首から拾った。
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