魂としての人間(2012 礼拝説教・創世記・マタイ)

創世記 2:6-9 、マタイ 10:26-31

2012.2.12、今日の説教、聴き手のために(263)、
明治学院教会、降誕節第8主日

(日本基督教団教師、単立明治学院教会牧師、岩井健作 78歳)

マタイ 10:26-31、”恐るべき者”(並行箇所 ルカ12:2-7)

1.「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」(マタイ20:28、新共同訳)

 は諺のように当時の教会で用いられていた。

 迫害の状況の中で、伝道者が殉教をも恐れずに一層伝道に励むようにとの勧めである。

 事実、マタイ10章の32節・40節では迫害の状況が語られている。

マタイ10:32-33、新共同訳 ”イエスの仲間であると言い表す”(並行記事 ルカ12:8-9)

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 研究者はマタイとルカに並行するイエスの言葉から『イエス語録集(学名で”Q資料”)を想定する。それによれば、この言葉は必ずしも迫害の状況だけでなく、もっと一般的に人間への理解のために言われたのかもしれない。

 マタイもルカも「魂(プシュケー)」は、① 自然的生命、② 感情・愛情などの起る所、③ 「自由に決断する主体としての人間自身・関係存在としての人間」などの意味を含む。特に③は創世記2:7「土の塵である人が神の息により生ける存在になった」という神学的洞察を含む。マタイもこの意味を含めて用いている。

2.「健全なる精神は健全なる身体に宿る」(ローマの詩人・ユベリナスの言葉)

 は人間のバランスから二分法で人間を見る。

 だが、パウロは人間を「霊と心と体」(第一テサロニケ 5:23)と三分法で考えている。

 現代でもYMCAは三角形の標識を用いて「Mind(心)・Spirit(霊)・Body(体)」で人間を表す。

 霊とは何か。フランス文学者の田辺保氏はこのパウロの霊を「エスプリ」という語で語り、次のように言っている。

「そこから、ふと、より高次の意外な『何か』を暗示しうるセンスだと言えば幾分近いのではないだろうか」

『何か』を『神』と言ってしまえばそれまでだが、単に人間の側の心や精神の豊かさと言ってしまわないで「関係を察知するセンスだ」と言うところに含みがある。

「霊」は神学的に表現すれば「神から賜る関係(聖霊)」であることに違いはない。

 ここはしかと押さえておかねばならない。

 だが、しかしそれを感知する人間のセンスの問題にまで引き寄せて「霊」を考えるところに文学者らしさがある。

「魂」はそのセンスを宿した人間を表している。そのセンスが人間と人間とを結びつける時「心や体」の違いにもかかわらず「霊」によって結ばれた関係が生まれ「交わり」が生じる。

「霊」は聖書では「風」とも訳されている(ヨハネ 3:8)。

「風」を感じる感性を含めて「自由をまとう魂」としての人間への自覚を促す。

ヨハネ福音書 3:8、新共同訳

風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

3.土井敏邦監督の作品・映画「沈黙を破る」を観た(日本キリスト教婦人矯正会主催)

▶️ パレスチナを忘れない(2012 望楼 ㉙)

 パレスチナ占領の残虐を兵役で体験したイスラエルの青年たちが「沈黙を破る」と言うNGOを立ち上げて、政府の弾圧にも屈せず、ヘブロンでの残虐の事実を示す写真展を開き、占領の現実とイスラエルの頽廃を含めての悲惨を語る。

 それは単なる「反戦」の運動ではない。

 半世紀を超えて苦難を受けてきたパレスチナ人の魂にも触れる。

 過去の戦争加害責任を忘却し、かつパレスチナへの加害責任をも自覚しない日本人の心にも触れ合う。監督は17年かけてこの映画を作った。

 魂が人間を繋ぐ。

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