“福音”という言葉の理解 − 宗教は”パッケージ・メッセージ”の伝達か(2012 マルコ ①)

2012.2.8、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第29回、「新約聖書マルコ福音書の言葉から」①

(明治学院教会牧師 健作さん78歳)

マルコ福音書 8章31節―36節(参考: マタイ福音書 16章25節)

1.「福音」という言葉が聖書ではよく使われます。原語の意味は「よい知らせ」と言う意味です。

 古代オリエント諸国では王の誕生、即位などを喜ぶときに使われました。現代でも新しい医療の開発などを、患者にとっての福音だ、などと用いられています。初代の教会はこの用語を「キリスト教」の術語とすることで、皇帝礼拝とは別な価値観を表しています。パウロはすでに初代の教会で用いられたこの福音の内容を再確認しています。

「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(コリⅠ15:3)

「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中から復活によっ力ある神の子と定められたのです」(ローマ 1:2-4)

 というように「福音とは……です」という叙述形式になっています。新約聖書の中にはこのような叙述形式の「福音」の説明が、他にも沢山出てきます。そうして「福音」が「信条」にまとめられてゆきます。一番古い「信条」で今でも教会で語り伝えられ、日曜日の礼拝で唱えられているのは「使徒信条」と言われるものです。

2.ご参考までにその初めの部分を記しみます。

「我らは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は、聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり……」。

 これはイエスがキリスト(救い主)であり「救い主」とはどういう方か、をまとめて語っています。ここではイエスの生涯というものは、一切省略されています。「生まれて……」その次は「十字架の死」なのです。

 ここまで来るのは随分後の事ですが、それでも「福音とは……である」とまとめる傾向はごく初期からありました。

3.しかし、それとは逆に、イエスの生涯を記録することによって、イエスの生き方に従ってゆく生き方そのものに「福音」の意味を見出そうとする傾向が他方にありました。

 その一番元になったのがマルコによる福音書です。福音とはイエスが人々と出会った、人々が新しい生き方を始めた、その全体であって「要するに……こういう事だ」とまとめられないという考え方です。

 イエスにまつわる物語の伝承を、丹念に収録して、それを一つの文学的叙述として記したのが「マルコによる福音書」です。ここでは「福音」とは、イエスの生涯・振る舞い・その生と死の全てであるという理解です。文学的にしか語れない、というのがマルコの方法です。

4.だからマルコ8章35節では「わたしのため、また福音のために命を失う者は」となっています。つまり、イエスと福音とが、等置されています。「イエスが即福音」なのです。

 ところが、マルコをなぞらえて書かれた文書であるマタイ福音書では同じ個所で「わたしのために命を失う者は」(16章25節)と「福音」という言葉を省いてしまっています。マタイは「福音」を、もう少しまとまった説明概念として用いる傾向に傾いていたのだと思います。

5.「福音」を文言でまとめる傾向、つまりパッケージ・メッセージ化すると何となく整理が出来て「ああ、こういうことか」と分かった様な気がします。しかし、福音は本来「イエスとの出会いの出来事」です。「出会い」は、出来事であってまとめることに馴染みがない事です。

 我々でも、Aさんはどんな人と問われれば、出来るだけ簡潔に説明しようとします。しかし、それで、Aさんが分かるわけではありません。Aさんとのお付き合いの全体がAさんなのです。

 出会いとは、出来事の歴史の積み重ねです。「福音」は、その人がイエスに出会って、イエスの後に従って生きることの全体をいう事なのです。

 でも、地図やガイドブックがあるように、まとめを手引きにする事は出来ます。そういう意味ではパウロ書簡や他の文書も語り口の違った意味を持っています。

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イエスの憤り - 子どもを軽んじる社会への批判(2012 マルコ ②)

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