共に苦しむ(2011 礼拝説教・コリント)

2011.10.16、明治学院教会(250)

(明治学院教会牧師6年目、牧会52年、健作さん78歳)

コリントの信徒への手紙 第一 12:12-27

”神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。”(Ⅰコリント 12:24、新共同訳)

1.人間の体は不思議なもので、足が悪ければ手がそれに倍してカバーをします。

 パラリンピックの選手の体の動きなど驚異的です。

 同じような性質のことは日常私たちが経験するところです。

”多くの部分があっても、一つの体なのです。目は手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また頭は足に向かって「お前は要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。”(Ⅰコリント 12:20-22、新共同訳)

「必要だ」という、パウロのこの共同体論は、なかなか説得力があり、譬えの引き方といい、展開の仕方といい、すぐれたものです。

2.この前提になっている二つの点をしっかり見ておかねばなりません。

① 一つはこれが語られている現実社会です。パウロは現実の二つの軸をあげています。

「ユダヤ人とギリシア人」という民族差別の軸。
「奴隷と自由人」という階級差別の軸(13節)。
 厳然とした社会の現実です。

② 二つ目は、これらから解放される根拠です。

 それは「バプテスマ(洗礼)」を受けたという現実です。

「古い罪の人間が死んで、キリストの霊を受けて新しい人に生まれ変わった現実」(ローマの信徒への手紙 6:3-11)。

”このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスにむすばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。”(ローマの信徒への手紙 6:11、新共同訳)

 この共同体論は初めから、人間を差別で見る現実と、「もう一つの現実」、キリストによる新しい人として人間全体を一つの体(共同体、繋がり)として見る現実との闘いなのです。

3.差別の現実は、当時のコリントの街そのものです。

 街の権力者を頂点とする合法的な自治組織「市民会議(”エクレシア”)」が、がっちり街を治めていました。

 力のある者が上に立つ社会です。

 他方、パウロの伝道で生まれた、階級差別と民族差別を克服した人々は、街の家内工業主とその労働者を含めた最下層の一種の住民組織の姿という形を持っていますが、内実は「洗礼集団」としての「教会(”エクレシア”)」です。

 同じ”エクレシア”でも「市民会議」は三角形(△)の権力が支配する構造です。

 逆に言えば、上に従っていれば「悩みを麻痺」させられています。

 もう一つの”エクレシア”の方は、絶えず原点の「キリストの霊を受ける」ことに一人一人が立ち返っていないと足をさらわれます。

 この二つの”エクレシア”の力の引っ張り合いの中で、パウロは「共同体論(教会論)」を展開します。

 それは「弱く見える部分」(十字架の逆説)が「体」を成り立たせている現実です。

 弱く見える部分に、「値なくしてこそ神の恵みに与る」ことが現れています。

 恵みに立ち返る、そのルートとして「一つの部分の苦しみ」に他者が与ることの大切さが指摘されます。

「共に苦しむ」ことは恵みに与る手立てです。

「共に苦しむ」ことがあるかないかの違いが、二つの”エクレシア”の違いでした。

4.先週、高崎で行われた「原発」のシンポジウムで、福島の施設の山下理事長は、障碍児・障碍者は、風評等の二重のノーマライゼーション(弱さを媒介とした立ち上がり)を我々に示している、と「原発事故」からの生き方を示唆していました。



▶️ 原発事故を受け止めて 
2011年10月13日(木)、社会福祉法人 新生会主催
「東日本大震災と原発事故」〜独日平和フォーラムとの対話〜



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