続・新しいぶどう酒は新しい革袋にいれるものだ − このテキスト、自分はどの文脈で受け取るか(2011 聖書の集い・イエスの言葉 ⑧)

 だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。…新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。(マルコ 2:22、新共同訳)

「福音書のイエスの言葉から」⑧
2011.5.25、湘南とつかYMCA「現代社会に生きる聖書の言葉」第14回

(健作さん 77歳、明治学院教会牧師)

マルコ福音書 2:18-22(並行記事、マタイ 9:14-17、ルカ 5:33-39、トマス 47b)

1.イエスがどのような状況で「新しいぶどう酒は新しい革袋に」と語ったかは分からない。マルコの一連のお話では、断食をするパリサイ派やヨハネの弟子集団と断食をしないイエスの弟子集団との際だった違いが論争になっている。

 事柄は、律法を守るか、守らないかではなく、どのように生きるかが問題になっている。

 外から規制されているのか、内から溢れ出るものによって生き方の違いであったと思われる。イエスと出会い、触れ合っていることから来る生きる力の漲ぎりが表現されている言葉であった。

 それはイエスの思想と振る舞いが、既存の秩序を破ってゆく力だったのであろう。既成のもの、定まったものの枠を突き破っていく生命力が感じられる。

 人間の在り方を固定的な観念から捉えない。常に途上の力として、発想を転換してゆく力のある生き方を表現している。ユダヤ教律法を止揚する力を言い表している。そのイエスの生き方とは何であったのか。

2.マルコは、これを、2章18-20節の「断食についての問答」の結論部分に引用した。「断食」はユダヤ教の大事な戒律の一つであったし、初代教会もそれを受け継いでいた。

 イエスが宗教的観念としての断食を否定したのか、断食に現れた宗教的偽善を批判したのか、いずれにせよ積極的に断食はしていない。貧しい民衆にとっては「飲んだり食ったりする」(マタイ11:18-19)ことこそが日常的喜びであった。そこと関連しないような断食だけを問題にするような宗教を疑問視した。花婿に死における断食は肯定されている(マタイ 9:15)。

 ここで言われている文脈を現代の我々はどう受け取るのか。それは一人一人違うであろう。それを分かち合ってみたい。

3.前回、私の今の文脈を申し上げた。それは「フクシマ」以後、日本はあらためて、価値観の転換を「世界に対して」問われている、と思っている。

「原発か/脱原発か」。そこから生活の在り方を考える。後始末が付かないで、何百万年も命を脅かす「核エネルギー」とは決別する。

「安全神話」で洗脳されてきたその体制を含めて、「新しいぶどう酒」は「新しい革袋」に入れるものだ。この発想の大転換をしないで、どこで今、イエスの教えを聞くのか。

 激しい問いではあるが、このテキストをそのように読む。一つの読み方であることという保留を重々つけた上で。

4.さて、みなさん一人一人の生活の文脈をお互いに分かち合いたい。

討論は(3)からではなく(2)のところから始めて下さい。(3)は、一つの受け取り方にすぎないのですから。

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(2011 聖書の集い・イエスの言葉 ⑨)