「福音書のイエスの言葉から」⑦
2011年5月18日、湘南とつかYMCA
「現代社会に生きる聖書の言葉」第13回
(健作さん 77歳、明治学院教会牧師)
マルコ福音書 2:18-22(並行記事、マタイ 9:14-17、ルカ 5:33-39、トマス 47b)
だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。…新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。(マルコ 2:22、新共同訳)
1.2008年1月23日にこの「聖書を学ぶ集い」で「イエスの譬(たと)え話」の文脈で、この箇所を「新しい布切れ、新しいぶどう酒の譬え」と題して取り上げている。
その時は、譬えとしての中心点がどこにあるのかという視点で学んだ。
「まだ晒していない」「きぬたづちで打っていない」「織りたての」(新共同訳)布切れ。最初に洗った時にひどく縮んで古いものを破く。ここが比喩の中心だと申しあげた。
ぶどう酒の方も発酵する生成過程の膨張力が古い柔軟性を失った革袋を壊すという点にあることを学んだ。ぶどうの方はその生命力の比喩になっていますが、むしろ古い革袋を壊すという破壊力が譬えの重点になっていると思う。「新しい」という言葉でこのことを表現したのはマルコの編集者によるものと思われる。
2.イエスがどのような状況で語ったかは分からない。マルコの一連の話では、断食をするパリサイ派やヨハネの弟子集団と、断食をしないイエスの弟子集団との際だった違いが論争になった場面かもしれない。事柄は、律法を守るか、そうでないのか、というより生き方が、外から規制されているのか、内から溢れ出るものによってかの生き方の違いであったと思われる。
イエスと出会い、触れ合っていることから来る生きる力の漲(みな)ぎりが表現されている言葉であった。それはイエスの思想と振る舞いが、既存の秩序を破ってゆく力だったのであろう。
既成のもの、定まったものの枠を突き破っていく生命力が感じられる。人間の在り方を固定的な観念から捉えない。常に途上の力として、発想を転換してゆく力のある生き方を表現している。ユダヤ教律法を「止揚」する力を言い表している。
3.マルコは、これを、2章18節-20節の「断食についての問答」の結論部分に引用した。
「断食」はユダヤ教の大事な戒律の一つであったし、初代教会もそれを受け継いでいた。イエスが宗教的観念としての断食を否定したのか、断食に現れた宗教的偽善を批判したのか、いずれにせよ積極的に断食はしていない。
貧しい民衆にとっては「飲んだり食ったりする」(マタイ11:18-19)ことこそが日常的喜びであった。それを否定するような宗教を疑問視した。トマスはこの譬えを「二人の主に兼ね仕えることはできない」ということの説明に用いる。
4.イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ 1:15)と、ガリラヤでの宣教を始めた。これは預言者の到来を久しく切望していた人々が 「救い」を見ることであった。イザヤの預言の言葉を思い出させたであろう。
「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の聞けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」(イザヤ35:5f、新共同訳)
イエスは、喜びの「婚礼」を「神の支配」の象徴として用いた。断食とは断絶している。それは、もはやユダヤ教の枠内にイエスのもたらしたものを位置付けることは無駄であり、できないということを告げている。
5.マルコは1章35節で「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた。(新共同訳)」とある。
ユダヤ教では午前・正午・午後と定時の祈りが3回あった。
その意味で言えばイエスは祈らない人であった。しかし「アバ(おとうさん)」と切実な祈りをした。
切実な祈りを現代の私たちは持ってゆきたい。「フクシマ」以後、日本はあらためて、価値観の転換の時代を迎えている。単純に言ってしまえば、前回も記したように、「原発か/脱原発か」である(中間というのは結局体のいい「原発」だろう)。
「脱原発」は十字架の道、イエスの道だと思う。
恐らく世界の各地各国で、この価値観を闘う者と共にイエスは立たれていると思う。イエスが十字架の死に向かって歩んだように、原発で多くの人が不条理な苦難を背負い、死を越えるがゆえに「生命」の躍動にふれる道であることは確かであると思う。
「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ」いう発想の転換を生きて行きたい。
