ほめ歌をうたう(2010 礼拝説教・詩編146)

2010.10.31、明治学院教会(208)

(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん77歳)

詩編 146:1-10

1.今日礼拝で歌った讃美歌(21-169「ハレルヤ。主をほめたたえ」)は、ドイツの敬虔派のヨハン・D・ヘルンシュミット(1675-1723)の作詞ですが、詩編146編を歌ったものです。

 詩編の分類から言えば「ハレルヤ詩編(詩編146-150編)」に属します。

 146編の成立年代はペルシア時代(BC593-333)以降です。

 日本語訳文は多様ですが、勝村弘也訳は、1節をこう訳します。

”ハレルヤ、わが魂よ、ヤハウェをほめたたえよ。”(詩編146:1、勝村弘也訳)

 口語訳、新共同訳は、共に「ヤハウェ」を「主」と訳します。

”ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。”(詩編146:1、新共同訳)

 原文が持っている響きやリズムが出ていません。

「アーメン」を「然り、本当だ、真実だ、そうなれかし」と訳した言い回しをしないで、世界中が「アーメン」と唱和することと似て「ハレルヤ、ヤハウェ」は、その響きやリズムを伝えています。

「ハレルヤ」はヘブル語で、「”ヤー《神の名》”を”ハレル《ほめたたえよ》”」という意味ですが、この言葉の担い手の心情を想像させる力を持っています。

2.この詩の作者は、貧しい人たちです。

 イスラエル民族は、バビロン捕囚後、ペルシア帝国によってパレスチナの地に帰還させられました。

 政治的にはペルシア帝国の支配を受けながら「神殿再建」をしました。

 祭司エズラ、ネヘミヤの時代です。

 しかし指導者はペルシア帝国の前に、何事も妥協的でした。

 これに対して、真の担い手は我々だと自負していたのが、都市大衆(デーモス)でした。政治からは疎外されていましたが「ヤハウェの民」の自覚が、この詩を生んだのです。

 9節の「寄留の民」の原語は政治的権力とは無関係の手工業者・商人その他、エルサレムに強制移住をさせられた庶民層を指す言葉だと言われています。

”主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。”(詩編146:9、新共同訳)

 3節の「君侯に依り頼んではならない。」は、よほど裏切られた経験があるのでしょう。

 4節、人間(ベン・アダーム)は「土(アダーマー)」に過ぎない、と言っています。

”霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる。”(詩編146:4、新共同訳)

 政治権力の相対化です。

 生きるということは、自分たちの「自立」以外にないのです。

 その自立の幸いが、5節に歌われます。

”いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人”(詩編146:5、新共同訳)

 讃美歌の3節の部分です。「ヤコブの神」という言い方は、詩編にはたくさん出てきます(詩編 20:2,4、6:8、75:10、81:1、94:7)。

 ヤコブの物語は創世記28章以下、この神は天地の造り主(詩編146:6)、囚われ人を解放する神、挫折者を起こされる神です(詩編146:7-8)。

 ここには避難所(アジール)の思想があります。「駆け込み寺」「女性の家”HELP”」そして「避難所をお家(うち)と呼ぶ子枯野星」の句を連想します。

3.強大なペルシア帝国の政治支配とそれを補完する「神殿の宗教支配」の強固な中で、この詩に出てくる人々は心底「生きづらかった」と思われます。

 虐げられている人、飢えている人、捕らわれ人、見えない人、うずくまっている人、寄留の民、孤児と寡婦、の問題は即現代の事柄でもあります。

 昨日の阿部志郎先生の講演によれば「自分の中にその人たちを生きづらくさせている根本原因(原罪)を読むこと」を怠ってはならないのです。

 そこからなお「天地の造り主」「主を待ち望み」「ハレルヤ。わたしの(生きづらさの根源である)魂よ、主を讃美せよ」と呼びかけ「上よりの力を頼りに」励ましを受けてゆくことが大事なのです。



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