腰に帯をせよ(2010 礼拝説教・ヨブ)

2010.10.17、明治学院教会(207)

(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん77歳)

ヨブ記 38:1-11

1.「なぜ義人が苦しむのか」を「因果応報(災いは過ちの報いなのだ)の教説」で説いた友人の説得に、ヨブは心底怒りを抱いた。

 そして友人との断絶を宣言した。

「教説・教義のみを前面に出す宗教」(共苦が欠如した宗教)への痛烈な批判です。

 ヨブは「私の苦しみはいったい何か」を「神」に向かって執拗に問います。

「応えない神」「隠された神」「神の蝕(しょく)”欠け”」との壮絶な戦いが続きます。

(戯曲ですから、この間複雑に、対話の挫折、独白、ヨブの総括(29-31章)が続きますが、今回はそこは省略します。)

 戯曲はいよいよ終局に向かいます。

 38章から41章は「嵐の中からのヤハウェ(主なる神)の問いかけ」または「神の弁論」といわれる部分です。

2.ここで大事なことは、今までの真摯な「ヨブの問いに神は答えていない」ということです。

 逆に「問い」をもって、神はヨブに迫ります。

”わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。”(ヨブ記 38:3、新共同訳)

 ヨブ記を読んだ時、いつもここで肩透かしを食わされます。

 問いには問いをもって、という禅問答のような文学形式の背景には「古代エジプトの《知恵》の伝統がある」とヨブ記の研究者の指摘があります。

3.問いには問いをもって、その問いを相対化することで、神はヨブとの関係を新たにします。

 問いが解ければそれを突破口にして先に進めるという、極めて実存的な生き方が真剣であればあるほどに陥る、落とし穴(ジレンマ、自己中心性)からの解放が神の問いです。

 2節に「神の経綸を暗くする」とヨブへの告発があります。

”これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。”(ヨブ記 38:2、新共同訳)

「経綸」は神の意図・計画という意味です。

 ヨブ記の著者の主要な関心は「義人の苦難の意義」ではなくて「神と人との生きた関係」そのものにあることが鮮明になっています。

 関わりの神。

 ヨブはここから神との関係を自覚し直し、改めて生き始める促しを受けます。

4.関東大震災の時の、内村鑑三と柏木義円の代表的キリスト者の言説の違いを教えられたことがあります。

 内村は、そこに神の「文明への審き」を読んだ。

 柏木は、朝鮮人虐殺を激しく批判し、国の在り方を問うた。

 同じことを阪神淡路大震災でも経験しました。地震の神学的意味付け、文明への神の審判を読み、人間全般への警告を迫るキリスト教がありました。

 と同時に「名前で呼ぶ」隣人同士の関係を作ることが、救援活動・街づくりの第一だと多言語放送を実践し、救援を続けた宗教者(神田裕神父)がいました。

”まちは破壊された‥‥が、人々の心はひとつになった。”(鷹取カトリック教会・神田裕神父、阪神淡路大地震の時の働きを述べた講演記録、『いのちの灯ともす − 寿地区センター10年の講演記録集』日本基督教団 神奈川教区 寿地区委員会編 2010)

 実際に目の前の人間を駄目にする現実と「腰に帯をして」戦った救援活動です。

 神戸出身の経済評論家•内橋克人氏は、神戸の復興が被災地に生きる人々の生活復興よりも産業基盤の回復に置かれた現実を捉え、それが、その後の各地の都市に及んでいく現実を「被災地の全日本化」と批判しています(『もうひとつの日本は可能だ』 p.59、内橋克人、光文社 2003)。

「今の現実から出発せよ」というのがヨブ記であります。

「腰に帯をせよ」はそのことを言っています。

 今の地平(新たな状況)から判断し、決断する。

 そこに改めて、使命、役割、戦いを自覚することが「腰に帯をせよ」との招きではないでしょうか。



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