歴史をたどる(2010 礼拝説教・使徒言行録)

2010.6.27、明治学院教会(195)聖霊降臨節 ⑥

(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん76歳)

使徒言行録 7:1-16

1.今、ステファノは裁判にかけられている(使徒言行録 6章、前回説教「ステファノの顔の輝き」)。

”「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」”(使徒言行録 6:14)

 と言ったという偽証を立てられてのことである。

 訴える側の論理は、神は神殿と律法とを通して自らを示す神である、その神殿と律法による割礼を汚すとは生かして、と居丈高な場面を想像する。

 それに淡々と「抗弁」するのが使徒言行録7章である。

2.正統的ユダヤ人はモーセの律法から話を始めるのに、ステファノは「わたしたちの父のアブラハムがメソボタミアにいて」(7:2)と、ユダヤ人熟知のアブラハムの物語(歴史)から話し始める。

 ここでは、メソポタミアが強調される。

 その遙かなる周辺の地に、ステファノは自らが離散のユダヤ人(ディアスポラ)であるという体験が重ねられる。

 彼の離散性を「メソポタミアのアブラハム」に投影する。

「離散性」をテーマにして、神殿と律法の中心主義を撃つ。

 まだ神殿も律法もない時代、遠く離れた地でアブラハムという一人の人物を通して、神は自らを示したではないか。

 イスラエルの歴史をそこから読み解いていく。

 次の段階では、イサク・ヤコブ、12人の族長の物語では、「ねたんで売られた(7:9)」ヨセフが神に「恵みと知恵(7:10)」を授けられて、カナン全土の飢饉の時、ヨセフを通して一族は救われる。

 ここにも離散性が見られる。

 このような歴史に働く神をどう見るのか。

”わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。”(出エジプト記 3:6、新共同訳)

”わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。”(使徒言行録 7:32)

3.ルカの読者は「神を畏れる者」(ユダヤ教に同調する異邦人)。

 この人たちが後にキリスト者になり、異邦人教会を形作る。

 この人たちが「生きられるような救い」の理解を語ったのが使徒言行録。

 神殿と律法中心ではない救済の働きかけが語られる。

 アブラハムが地縁・血縁を断ち切って、神との関わりで本来的自己を見出したというすごい物語。「行き先も知らずに(ヘブライ 11:8)」出発する歴史に救いを見る。

 私たちは、自分の外に「救い」を求めていることはないだろうか。

 すでに歩んできた歩みの中に、辿ってきた歴史の中に、「救い」の出来事が怒っているのではないか。

 あのアブラハムに神は働いている。

 ステファノが「わたしたちの父」と言ったように、それぞれが歩んでいる歴史には「わたしたちの父」がいるに違いない。

 その歴史を辿ってゆきたい。

4.先週『途上人』(佐々木悟史牧師 追悼集)を夫人•五津子さんから送られた。1928年生。海軍兵学校で敗戦、戦後受洗、牧師として野幌・山梨で牧会。1986-2005年 ドイツにて牧会。76歳没。幼少の農業体験が伝道の真意の体験となる。



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