2009.6.28、明治学院教会(159)聖霊降臨 ⑤
画像は2020年11月、伊香保温泉
(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん75歳)
コヘレト 3:1-15、ローマ 13:11-14
”神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。”(伝道の書 3:11、口語訳 1955)
1.聖書は歴史的書物である。それぞれの時代にイスラエルの人々がどのように神をイメージして生きたかが記されている。
例えば、創世記3章は次のように記す。
”その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。”(創世記3:8、新共同訳)
何か人間的だ。
2.神のイメージ(神との関係の捉え方)はその時の社会体制や歴史・地理・文化・宗教などの条件によって変わってくる。
ラテン・アメリカの「ペルボ聖書センター」の中ノ瀬重之(シゲ)神父は、旧約聖書の神のイメージを整理して考える。
① 部族連合社会(BC1250-1030)共同所有の土地での相互扶助時代(天幕での友愛の神)。
② 王制(BC1030-579)統一王国の成立で王と神殿による支配が始まり、土地が民から奪われ、搾取が始まる。それへの抵抗が始まる(預言者の神)。
③ 捕囚(BC597-538)全能で遠い神(エゼキエル)、贖(あがな)いの神(第二イザヤ)と神のイメージの二分化。
④ 捕囚後(ペルシア、エジプト帝国支配を神権政治が補完)農民が貧困層(飢え、無宿、早死に、奴隷状態)に急激に没落。”全能の神(エル・シャダイ)”は支配者の味方。その中でコヘレトは支配者の神(因果応報の神)の理念化を批判し「神への畏れ」を説いた。
神を「理念」から解放し、「生きる経験」の中での捉え直しを促した。これはコヘレトの大事な点である。
「補囚後の紀元538年以降、……神殿が再建されるとイスラエル共同体は神殿や律法、いけにえの儀式を中心に組織されます。神は次第に民から遠ざけられていきます。事実、支配階級のエリートたちは神のイメージを乱用し、民に畏れを抱かせて民を統制し搾取します。彼らは神の位置に自らを置き、いのちの神、歴史の主を畏れない傲慢な人々です。このような神のイメージの乱用に対して、コヘレトは神を畏れ、歴史と民の生活のなかに受肉した神を信じ、困難の中にある人々と連帯します」。
(155頁、『喜んであなたのパンを食べなさい − ともに学ぶ「コヘレトの言葉」』マリア・アントニア・マルケス、中ノ瀬重之、訳:大久保徹夫・小井沼眞樹子、ラキネット出版、2009年1月)
3.コヘレト3章は、人生の28場面の時を掲げる。
半分は肯定的、半分は否定的。28は7の4倍で全体性と完全性を示す数字である。人間の最大限の日常経験を収めようとする。
イスラエル民族が歴史の渦中で体得した経験が凝縮されたもの。この凝縮の中で神のイメージをいくつかにまとめる。
① 歴史の神
「神が人の子らにお与えになった務めを見極めた」(3:10)
② いのちの神
「最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ること」(3:12)
③ 無償の愛の神
(因果応報の神学には収まらない)
④ 神への畏れ
「神は人間が神を畏れるように定めされた」(3:14)
⑤ 迫害される者の神
「追いやられたものを、神は尋ね求められる」(3:15)
「コヘレトの言葉」は、人々の苦悩を見て、賢者が神について省察し、記述したもの。
4.3章11節はそれらの神のイメージの極みである。
”神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。”(伝道の書 3:11、口語訳 1955)
「何ごとにも時がある」というひと時ひとときを大切に生きて、自分の神のイメージの経験を豊かにしてゆきたい。
神は生きて働き給う。


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