2009.3.15、明治学院教会(147)受難節 ③
(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん75歳)
マルコ 14:32-42
1.「ゲッセマネのイエスの祈り」は、学んでも尽きない事柄を多く含む。
今日は「イエスはひどく恐れてもだえ始め」(33節)の句から学びたい。
”一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」”(マルコによる福音書 14:32-34、新共同訳)
2.死を目の前にしての二つの生き方。
(1)一つは、泰然として死を受容する。
臨済宗の僧・快川紹喜(1502-1582)の言葉。
安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水をもちいず)
滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば 火も自ずから涼し)
従容(しょうよう)たるソクラテスの死。
(2)もう一方で、戸惑いが逆に救い。亀井勝一郎の『思想の花びら』の中の言葉。
”死に直面して、びくともしない名僧の話だけでは困る。死に直面して、悲嘆し狼狽する名僧もいなければ凡人は救われない”
3.イエスは後者。イエスは何を恐れたのか。
迫りくる死か。それだけでは説明がつかない。死を予測したエルサレム入城(宮清め、過越の食事)。イエスは過去の死人が蘇って天上の祝宴についていると宣べ伝えている。
イエスは神の子・キリストだから恐れがない、という理解を福音書はとらない。使命への服従において、神との愛の一体性に悩んだという説明(ある新約聖書学者)も文脈から不自然。イエスの死の神学的意味づけは後世のものである。
新約聖書学者・大貫隆氏は次のように理解する。
”死の意味が見えないところを悩んだ。説明された苦悩はもはや苦悩ではない。覚悟の死は私たちの生の一様式となり、生の内部に収まる。ところが生の内部に収まらない死、生きている事そのことをゼロにするような死、信仰の人の信を破壊するような死がイエスに迫っていることを予感して、”恐れもだえた”のである。”
”自分の言動を動機づけてきた根源的メタファー(隠喩・対象物を間接的に他のものに譬える。イエスの場合、天上の祝宴)での意味づけが破れた。”
(サイト記:上記の大貫氏の著書の引用部分の正確性はチェックできていません)
4.答えを手の内に取り込まないまま、委ねて先に進む。
”…御心に適うことが行われますように。」”(マルコ 14:36節)
先に進む、進み方の秘密が「アッバ、父よ(36節)」(イエスのもう一つのメタファー)という呼びかけにある。
「アッバなる父」の神の意志を尋ね求める必死の闘いが祈りであった。
天の父という概念はユダヤ教にある。それは家父長制の観念で、一対一で対面状況の「わが父よ!」とは異なる。”アッバ”はアラム語で、家庭内で幼児が父親に向かって用いる純粋な呼びかけの言葉。
福音書ではイエスが逮捕前夜の絶体絶命の危機の中の祈りの中に一度だけ現れる。「アッバ」が神に対するイエスの最も奥まったところからの叫びであったと考えて間違いない。建前から自由にされて、我が子と向き合う父を知っていた。
ここに、神を父・人間を子に見立てる発言、神と人間の関係を表現するモデルの発見がイエスにはあった。「放蕩息子、二人の息子、主の祈り」の例がある。
5.八木重吉の詩。
てんにいます
おんちちうえをよびて
おんちちうえさま
おんちちうえさまととなえまつる
いずるいきによび
入りきたるいきによびたてまつる
われはみなをよぶばかりのものにてあり
(八木重吉「み名を呼ぶ」)
関係を手の内に収めない。分かったものにしないというところに祈りがある。
「御名を呼ぶばかりの者」でありたい。
147_20090315
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