2009.1.18、明治学院教会(141)降誕節 ④
阪神淡路大震災から丸14年
(単立明治学院教会牧師4年目、牧会50年、健作さん75歳)
マルコによる福音書 10:46-52
”行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。”(マルコ 10:52、新共同訳)
1.「盲人バルティマイ」の物語は、マタイでは「二人の盲人をいやす(20:29-34)」、ルカでは「エリコの近くで盲人をいやす(18:35-43)」と一般化される。
元来は固有名詞のある物語。
マルコ福音書には「奇跡物語」が多い。これは著者マルコが意識して、イエスとはどういう方であったかを語るために「イエスの振る舞い」を伝えている伝承を集めていたからである。
当時、神の働きを伝える「福音」は「理念化」されていた(例えば、ローマの信徒への手紙 1:2-4など)。
イエスの生涯全てを「福音」と言い表したのがマルコ(1:1、8:35)。
”神の子イエス・キリストの福音の初め。”(マルコ 1:1、新共同訳)
「福音書」という一つの新しい文学類型で「福音」を語った。
マルコは、既成宗教•ユダヤ教を根底から批判するイエスの言動を伝え、十字架への道に向かう緊迫さを伝える。
2.「盲人バルティマイを癒す」物語は、自分たちの栄達しか考えていない弟子たちの姿(10章)に続く、11章からの「イエスの受難物語」との間に置かれる。
いわば分水嶺。
弟子には「救い」が見えていない。バルティマイは盲人であるが、ただひたすら見えること、「信仰的認識」としての開眼を求める。
イエスの受難にこそ命が秘められていることを求めることで弟子たちより先をゆく。
3.「多くの人々が彼を叱りつけて黙らせようとした」(10:48)。
”バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。”(マルコ 10:46b-48、新共同訳)
「ダビデの子から救世主メシア」が出ることは、当時のイスラエルの大方の人の期待であり、常識的信念。だが、それをイエスと結びつけたのが、盲人バルティマイ。
イエスは「彼を呼べ」と「バルティマイの叫びに呼応」する。
エルサレムに向かう「受難、十字架の苦難」を選ぶ意志があり、その背後と裏面には「神の救済」の強い意志がある。
5.彼の意志は「私を憐れんでください」の叫び、それに答える神の意志が出会うところに奇跡がある。
ペトロの「あなたこそメシアです」(8:29)との告白を、マルコは評価しない。
ペトロには、イエスに従っているという自負があるが故に、受難物語の中では挫折をする。
そこをマルコはバルティマイと対比する。
盲人の切なる叫びは「目が見えるようになりたい」。
その答えが、イエスの「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(10:52)である。
これは「帰還命令」であり、非常に古い伝承にしかない。
これは、家に帰れ、お前を疎外してきた地域社会に帰れ、そこが生きる場所だということ。そこへ押し出す言葉。
50節「彼は上着を脱ぎ捨てて」。価値の転換。依存的生活形態からの脱出で、受難を含む。
イエスに従うことは「帰還」「行け」との招きである。
イエスが病人を癒した目的は、家に帰って当たり前の生活をすること。
イエスの言葉は、当たり前の生活へと「行け」と押し出すことであった。
その人が根源的な人間性の回復を得られる場、「家族」への帰還が「奇跡」の結果であった。
6.「そんな恐怖の日々に耐えられたのは、家族への強い思いからだった」(朝日新聞社説 2009.1.12)医師•赤羽桂子さんの誘拐からの解放を伝える言葉である。
(サイト記:赤羽桂子医師は「世界の医療団」から派遣されエチオピアで医療活動に従事、2008年10月にソマリアの武装集団に拘束され、2009年1月10日に解放された)


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