イエスの人格力 (2008 礼拝説教・マルコ)

2008.10.26、明治学院教会(131)降誕前 ⑨

(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん75歳)

マルコ 3:1-12

1.マルコ福音書は激しい書物である。

 紀元70年前後の成立。その頃すでに「福音」は簡潔な「信条」に纏められていた。

 しかし、マルコはそれに抗して「神の子イエス・キリストの福音」(マルコ1:1)を辺境ガリラヤ地方に伝わる「奇跡物語」「論争物語」「言葉伝承」などを集めて編集し、独自の「福音書文学」の形式でイエスを「物語」で表現した。形骸化する初期教会への過激な挑戦であった。

2.3章1−6節は、前節2章23-28節の「安息日論争」を徹底化している話。

”イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。”(マルコによる福音書 3:1-6、新共同訳)

「人間(自由の主体)が安息日(律法・規則)のためにあるのではない」。

 この言葉は「麦の穂を摘む」(社会扶助)ことで命を支えられる貧しさの現実をを知らない者が「律法(法、体制的秩序)」を盾に、人(他者)の命を奪うことに加担していることに投げかけられた、その状況で力を持つイエスの言葉であった。

 状況と言葉が組み合わさった伝承を、新約聖書学では「アポフテグマ」(聖者の逸話を彼らの言葉に中心を置いて描く、一つの文学類型を特徴付ける呼称)という。

 言葉のみの伝承が普遍化・観念化するのを避けた伝承である。

 イエスや弟子たちの行動が誘因となって起きたユダヤ教指導者との論争での言葉である。

3.3章4節。

”「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」”(マルコ 3:4)

 安息日の医療には緊急助命の例外規定があった。パリサイ派でも「命を救うこと」の方が安息日の戒めよりも優先すると考えていた。「手の萎えた人」は、命の危険がないから、当然翌日に回されるケースとなる。

 イエスの革新性は、慢性的障害者をその日のうちに癒した点にある。

 緊急規定を一般化し、徹底化した。

 安息日であろうとなかろうと、善をなすことは常に妥当する要請である。中立の逃げ場がない思想、中立の逃げ場を排する思想が表明されている。

 自分にできるはずの行動や闘いをしていない者は「命を殺す」者の側なのである。

 ”彼らは黙っていた。”(4節の最後)。身の保全を図るあり方。

4.3章5節。

”そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。”(マルコ 3:5)

 黙っている人々に対して、イエスは怒(いか)る。旧約では怒りは神の怒り”審き”を表し、新約聖書では怒りは否定的に用いられている。

5.6節はマルコの主張。

”ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。”(マルコ 3:6)

 イエスは社会秩序を揺るがす危険分子として(十字架で)処刑されるに至る。

 マルコは「神の子イエス・キリストの福音」を「受難と死を生きる人イエス」として描く。

6.マルコ3章1-6節を何度も何度も読み返してみて、その激しさに圧倒される。

 イエスの激しさ、それを収録するマルコの激しさ、そして、それを読み続けてきた歴史の中の「激しい」人々。

 その系譜につながる部分が私たちの内にあるなら、それを大切にしたい。

 それは「神の賜物」である。「黙って」逃げを決め込んでいる部分があるならば、そこはイエスの「怒り」を受け取ってゆきたい。

「片手の萎えた人がいた」とある、現在もいる。この現実の苦悩に心を閉ざしてはならない。

 福音は「神の審きと赦し」である。審きを自覚しつつ、なおイエスに従ってゆきたい。心貧しい者にも招きが与えられている。現実の苦悩は、いつも私自身の決断を迫る。イエスの人格力に打たれて生きる生活を祈り求めてゆきたい。

7.『教育力』(岩波新書 2007)の著者・斎藤孝氏は「あこがれにあこがれる関係づくり」が教育力だという。

 イエスは「命を救うことか、殺すことか」を日常の問題として突き付けた。

 命への関係づくりはイエスの人格力の威力である。

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